■市民と患者の対立 深刻な“分断”を経験した水俣市で正面から立ち向かった政治家は…(熊本県)
戦後長い間、深刻な「分断」を経験してきた水俣市で、「市民と患者の対立」という言葉に象徴されるように同じ水俣市民であるはずの患者は市民として扱われないという経験をしました。
歩み寄りは不可能とまで言われたこの状況に正面から立ち向かった政治家がいます。1994年から水俣市長を務め去年亡くなった吉井正澄さん。
18日、吉井さんを慕う人たちが集まりました。水俣病患者や遺族、支援団体、県内の市長や元市長、農業や町おこしに力を尽くす人たち。「偲ぶ会語る会」には立場を超えた多くの人が集まりました。元環境庁事務次官の鎌形浩史さんは、「これだけ多くの方々が吉井さんへの思いを持っている ということに、あらためて吉井さんの地域とのつながりを考えさせられたところです。」と語ります。
1994年、吉井さんは市長に初当選しました。自民党市議出身ということで水俣病問題へのスタンスは変わらないだろうとみられていました。ところがその直後に行われた水俣病犠牲者慰霊式で、吉井市長の名は全国に知れ渡りました。吉井市長は慰霊式で、「水俣病で犠牲になられた方々に対し、十分な対策を取り得なかったことを、誠に申し訳なく思います。」と述べたのです。
公式確認40年を目前にして、初めて水俣市の市長が公式の場で謝罪をしたとメディアは大きく報じました。しかし実はこの時、吉井さんはもう一つ大切なことに言及していたのです。
「患者とそうでない市民の心が離反し、患者も幾つかの団体に分かれるなど 水俣は混乱の極みに達しました」
「市民のほとんどが、水俣病を克服しなければ水俣の発展はないことを十分に認識し理解していながら、『ではどうすればよいか』という判断をしないまま40年近く過ごしてまいりました。」
この謝罪のあと、吉井さんの自宅にまで脅迫めいた電話が殺到しました。しかし、吉井さんは歩みを止めませんでした。謝罪の翌月には患者団体と市が協議会を設置、定期的に情報交換を行うようになりました。
11月に市民600人が参加した集会では、初めて「もやい直し」という言葉を使い、分断された市の融和を呼びかけました。
以降、「もやい直し」は市民と患者の合い言葉となります。
市長の熱意は政治を動かしました。
17日、亡くなった村山富市氏が総理を務める連立政権は、吉井市長をキーマンに立てて、それまで話し合うことすら難しかった患者団体との距離を縮めていきました。吉井さんが市長になって1年後の1995年、水俣病はその歴史で初めての政治解決を迎えるのです。
「偲ぶ会」では、当時を知る人たちが、吉井さんの果たした役割を語りました。
水俣病患者遺族・語り部の杉本肇さんは、「あなたの言葉には情熱があり、 責任がありそして潔かった。そんなあなたのお人柄は、人々の心まで修復する力がありました。語り部をやっておりますと、子どもたちはもやい直しという 言葉が大好きです。その言葉の意味は、失われた環境を蘇生させ、荒れ果てた市民の連帯感を修復し 住む喜びと誇りの回復市民が心を寄せ合うための合言葉。そのようにあなたの思いを私は語り部として子どもたちに伝えていこうと思います。」と語りました。
「みなまた和紅茶」の農家、天野浩さんは、「吉井さんがいつも言われてたことがありまして。私は君たちのお父さん、お母さんたちをよく知ってる。顔を合わせたらけんかばっかり、 そっぽ向いたりいろいろある方達ばっかりです よと言われてました。その子どもたちが世代を超えて、こうやって一緒になって私の家に来ることがあるなんて考えてもいなかったと、ニコニコしながらいつも言われていたのを思い起こします。ひとつのものを見るとき、自分の視点だけでは本当の姿を見ることはできない。あらゆる角度から、あらゆる視点から見る必要がある。そのためには、立場や考えが異なる人の視点や意見はとても参考になる。その練習だけはしておくと損はなかですよと毎回お話さされていました。」と話します。
水俣病患者の運動組織、「チッソ水俣病患者連盟」の委員長を務めた川本輝夫さんの長男、川本愛一郎さんは、「私の父親が、川本輝夫というんですけども」と前置きし、「最初はなんかこう対立的な感じだったんでしょうけど、話をするに従ってですね、うちの父親の言うことはですね、『俺は吉井党じゃ』って、『俺は吉井を応援するぞ』って言っていました。」と語りました。
市長を引退後も環境大臣が設置した水俣病問題を検討する懇談会の委員として、国と政治家に真正面から向き合いました。
「組織の中でなぜ一般的常識が通用しなかったのか。なぜ正論が通らなかったのか。 なぜ組織は良心を持ち得なかったのか。改めて検証されるべきでしょう。 組織の在り方がそのままでは必ず同じことが何回も起きると思われます。政治に『大の虫を生かすために小の虫を殺す』という言葉があります。これは政策の選択については国益が優先するということでしょう。水俣病事件は『国の経済成長という大の虫を生かす為』という国の意志が大きく働いた事件であります。水俣病は踏みにじられる小の虫だったのです」
社会の分断が深刻な問題になる中、吉井正澄という政治家が遺したものを検証する時期が来ています。
(10/23 10:59 熊本県民テレビ)
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