NNNニュース

【戦後80年】捕虜収容所のメリークリスマス@釜石の記憶 岩手県(岩手県)



 第二次世界大戦中、連合国軍の兵士の捕虜収容所が岩手にもあったことをご存知でしょうか?

 釜石市にあった捕虜収容所の元所長が残した記録と、その孫が戦争の事実を次の世代に繋げていこうとする姿を22日から4回のシリーズでお届けします。

 「戦後80年」の夏。

 釜石で風化しつつある戦争の記憶を継承し、未来につなげていくためのイベントが開催されました。

「町は一面焼け野原、爆弾の跡でしょうか」

会場では戦争を知る世代の講演会や映画の上映、パネルディスカッションなどが行われました。

(拍手)

 小暮聡子さん
「東京でニューズウィーク日本版という週刊誌の記者をしている小暮聡子と申します。なぜ祖父は辛いその経験を、戦争の記憶を残してくれたのだろうということです。祖父の戦争の記憶というのは、釜石にあった捕虜収容所の所長をしていたことにまつわることです。それらの戦争の記憶をいくつかの手記として書き残しており、私はそれらを高校生の時に初めて読みました。祖父が伝える戦争の記憶をいわば受け取った形になったわけですが、それから私は釜石収容所について調べ始めました」

 「ニューズウィーク日本版」の記者・小暮聡子さん。

 亡き祖父の稲木誠さんは、釜石の捕虜収容所の元所長で戦後は戦犯となり、有罪を言い渡されました。

 小暮さんにとって、優しいおじいさんだった稲木さんがなぜ戦犯になったのか?

 捕虜収容所で何があったのか?

 栃木県出身の小暮さんは、たびたび岩手に足を運び、その現実と向き合ってきました。

 そして、原稿用紙132枚に及ぶ祖父の手記や12年間続いたというオランダ人元捕虜との手紙のやり取りなどともに『降伏の時』という本にまとめ、出版しました。

 小暮聡子さん
「日本の歴史記憶の中に捕虜収容所っていうものが、まだ公の記憶としてなかなか認知されていないっていう状況がある中で、知ってほしいっていうのもありましたし、あとはその降伏の時で描かれているものって、戦争が時代背景ではあるんですけど、人だと思うんですよね。戦争中に、私の祖父もそうですし、捕虜の方もそうですし、どういうふうに生きたかみたいなことが、人間のありようみたいなことが描かれていると思ったので、戦争中であっても、そこにいるのは人なんだっていうことを私が読んだ時に一番感じて、それってその戦争中だけじゃなくても、今の時代でも当てはまるというか、何があっても自分の人間性を失わずに生きるにはどうしたらいいのかとか、そういうことを私自身が受け取ったので、そこは伝わったらいいなと思って作ったところはありました」

 第二次世界大戦中、日本国内に捕虜収容所は、およそ130か所ありました。

 岩手・戦争を記録する会 事務局長 加藤昭雄さん
「鉱山があるところとか、大きな工場があるところ、労働者が少なくて労働者が欲しいようなところですね、そういうところに収容所を作って捕虜を労働させると、こういうことが目的だと思います。岩手は釜石に2か所。それから、和賀仙人という今の北上市ですが、そこに1か所の収容所がありましたね。釜石鉱山、それから釜石製鉄所ですね。収容所にもよるんでしょうけども、だいたいは、ちょっと具合が悪いと言っても嘘だろって言って働かせたり、怠けてたら、殴ったりしたというようなこともあったというのが捕虜収容所ですね」

 釜石の2か所のうち、1942年に設けられたのが甲子町にあった「大橋捕虜収容所」。

 インドネシアなどから移送されたオランダ人とイギリス人、そしてアメリカ人など、およそ400人が終戦まで釜石鉱山で労働に従事させられました。

 捕虜には技術者が多く、削岩機による採掘、電機工事、機械修理などもしたといいます。

 また、その翌1943年、今の港町、甲子川の河口付近に設けられたのが、釜石捕虜収容所です。

 大橋収容所と同様、オランダ人ほか連合軍の捕虜が終戦までおよそ400人収用されました。

 ここでは、釜石製鉄所の作業やトンネル工事などに従事させられたといいます。

 小暮聡子さん
「山とか川とか海とかは、多分80年前と変わらないと思うんで、こういうものに囲まれて400人生活してたんだっていうのは想像しちゃいますよね。多分あの辺に釜石製鐵所の煙突があって、煙突からボーって音が出ていて、ここ収容所から毎日朝、製鉄所であったり歩いて通っていたっていうのも」

 小暮さんの祖父、稲木誠さんが、陸軍少尉として所長になったのは、 1944年4月のことでした。

 まだ20代後半という若さで、英語も話せたといいます。

 小暮聡子さん
「彼が書いたものから伝わってくるところで言うとまじめというか、曲がったことが嫌いで、人には公平に接しようと、多分考えてたんじゃないかなというのは すごく伝わってきます」

『降伏の時』より抜粋
「われわれは切迫した状況の中で俘虜(捕虜)に食べさせ、寝させ、
患者を手当てするために全力を尽くしてきた。
戦争というものはいつか終わるものさ。その時は君たちをジャワまで送っていくよ。
(中略)
彼らを無事送り帰すのは私の夢であり望みだった。
食事は日本側と俘虜側と別々に作ったが、
私は月に2回程度は不慮の食事を食べて自分の舌で確かめた」

 この『降伏の時』の文面からは、 稲木さんの人となりが伺えます。

 収容所は捕虜たちと誠実に向き合ってきたのではないでしょうか…

 しかし、連合国軍による釜石への艦砲射撃で多くの捕虜を失った稲木さんは、BC級戦犯となってしまいます。

 2回目の23日は、捕虜収容所の様子を知る関係者を訪ねます。

 艦砲射撃で被災した場所へもー


(12/22 20:42 テレビ岩手)

TOP

Copyright(C)NNN(Nippon News Network)