■101歳の元陸軍一等兵 シベリア抑留4年間の記憶【徳島】(徳島県)
84年前の12月8日、旧日本軍の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まりました。
終戦後、シベリアで4年間にわたって抑留され、過酷な体験をした阿波市の男性に、当時の状況と、今思うことを聞きました。
阿波市市場町に住む、松村廣保さん101歳。
農家に生まれた松村さんは小学校卒業後、旧満州で農作業などを行う満蒙開拓青少年義勇軍に志願。
14歳で日本を後にしました。
(記者)
「開戦した時はどこにいらした」
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「満州でな義勇軍じゃけん、冬になったら畑が凍ってしまって(農作業が)できんけん、山の木を切って炭焼きしてた」
「炭焼きしててな『戦争が始まったぞ』っていうこと聞いた」
1941年12月8日。
旧日本軍がハワイ・真珠湾を攻撃して始まった太平洋戦争。
義勇軍だった松村さんは1944年10月、19歳で陸軍の満州441部隊に入隊し、1945年7月に陸軍1等兵となりました。
その1か月後の8月15日、終戦を迎えました。
しかし、満州へ侵攻する旧ソ連軍と旧日本軍との戦いは終戦後も継続。
松村さんは行軍途中に、旧満州東北部の依蘭の川辺で旧ソ連軍の艦船と戦いました。
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「船が(川の)真ん中通るだろ(日本軍との距離が)400メートルちょっとあるんじゃな」
「鉄砲で撃っても300メートルしか飛ばん、みんな落ち込むんじゃ、私は擲弾筒兵だった」
「擲弾筒というのはこれぐらいの筒を、こうやって持つんじゃな、そして下から手でこうやって撃つ」
「水鉄砲みたいなんじゃ、それは600メートル飛ぶ」
「『松村 擲弾筒撃て』って命令が下ったもんじゃけん、私が撃ったら(ソ連艦船)から20メートル先ぐらいに落ちたんじゃ」
「そして2発目を発射した時に、(擲弾筒から)黒い煙が上がるところを狙われとってな、 ボーンと擲弾筒と指をやられた」
「この指の先がぺちゃんこになっとった」
左手の親指を失った松村さん。
旧ソ連軍の追撃をかわすため必死に逃げ、迎えた8月22日。
方正県で、旧ソ連軍により武装解除された旧日本軍と合流したことで、初めて終戦を知りました。
その後、旧ソ連軍によって船に乗せられます。
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「大きな輸送船に軍隊が全部乗ったんじゃ、200人あまりが」
「日本に帰れると思いよった、そうしたところが(その後)1人がきゅうきゅうで座れるくらいの貨物列車に乗せられた」
列車に揺られて着いたのは、樺太を対岸に望む港町。
ここに船が来れば帰国できると思っていた松村さん。
しかし、到着した船が告げたのは非情な現実でした。
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「(船から)ようけ兵隊が降りてきた。『どっから来たん』『樺太からじゃ』『こっちはここから日本に帰る』『ほんなことない戦争に負けて労働者としてロシアに送って来られた』こりゃあかんわと思って諦めた」
収容所では丸太の加工や、建具作りなどを行いました。
そうした中、特につらかったことがあると言います。
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「ロシアの奴がようけデマ飛ばすんじゃわ『もう日本に帰れる』言うてな」
「それをほんまにしてな『今度はあの人が言よったぞ』『日本にお前帰れる』そんなんばっかりそれが年中続いとった」
また、収容所の食事面では。
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「1日に乾パンが1枚だったんじゃ」
「そしたら(看守の)キャピタンって人が『日本人はお米食べなんだら仕事にならんけんお米送ってくれ』って言って」
「樺太でまぶした日本のお米な、それを送ってもろてな私やに米食わしてもろた」
(記者)
「抑留中はどんなこと考えてました」
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「日本に帰りたいという夢ばっかりだった。いつも話に出るのは、正月の雑煮を食べる話ばっかりするんじゃ」
樺太近くの港町のほか、色んな収容所を転々として厳しい抑留生活を過ごした松村さん。
厚生労働省によりますと、シベリアに抑留された日本人は約57万5000人で、うち1割ほどの5万5000人が現地で亡くなったとされています。
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「死んだ人間は聞かなんだね、私やの部隊では。うちの部隊はみんな運がよかったんじゃ」
「やっぱりなんか希望があってな、今度帰ったらこうしたろうとかな」
収容所生活を耐え抜いた松村さんは、1949年7月、4年間の抑留を終えて舞鶴港に帰還しました。
(記者)
「当時の気持ち覚えてますか」
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「(舞鶴港を見て)『日本に帰って来た』とほんまみんな涙流してな、降りたら婦人会の人がみな寄って来てな、『お帰り』って言ってくれたらもう、うれし涙が出てな泣いたな」
14歳で旧満州に渡った少年は、24歳の元陸軍1等兵となって両親が待つ阿波市市場町の実家へ。
実際に、この道を歩んで家路についたと言います。
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「迎えに来てくれた人がな、100人ぐらい来とったんじゃここに」
(記者)
「この道沿いも人がいっぱいだったんですか」
(元陸軍1等兵・松村廣保さん 101歳)
「いっぱいだった」
帰って来た当時、母屋の周りは大勢の人と喜びの声で溢れました。
(記者)
「(両親から)どんな言葉かけてもらいましたか」
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「『おぉもんて来たか』って言われたな」
「お客さんもこの辺いっぱいでな、みんながお茶出してくれて喜んでくれた」
爆撃やシベリアでの抑留を経験した松村さん。
戦争について今、考えていることは。
(元陸軍一等兵・松村廣保さん 101歳)
「戦争って何のためにしたんだろうって思うな、苦しいのは兵隊と国民だけ」
「もう戦争は絶対にしてはならんと思うね」
松村さんは帰国後、自身の体験を後世に伝えようと、学生を対象とした講演会などにも参加しています。
戦争のない平和な世界を目指して。
12月で満102歳になる松村廣保さんですが、20年ほど前までは戦争の夢を見ることがよくあったということです。
戦争のない世界になることを願いたいと思います。
(12/08 18:42 四国放送)
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