KRY山口放送

制作者より

「ふたりの桃源郷」に寄せて
佐々木聰監督からのメッセージ

二人はなぜ山にこだわったのか

取材を始めた頃、寅夫さんとフサコさんが山に戻った理由は、思い出が染み込んだあの場所で余生を送りたいから、つまり「郷愁」によるものと考えていました。
「桃源郷」の取材は他の取材とは違って、ある意味「何も考えず」に「山で同じ時を過ごす」というものでした。撮影の合間に一緒に木を切ったり、畑仕事をしたり、採れたものを食べたり、お風呂に入れてもらったり・・・。そうするうちに、寅夫さんが山にこだわる理由は「郷愁だけではないのでは」と考えるようになりました。もっと「大きなもの」があるような気がしたのです。そして寅夫さんが亡くなった時、私たちに本当に伝えたかったのは、「農を中心に据えた生き方」ではなかったか、ということに思い至りました。
寅夫さんの口癖は「人間は自分で食べるものくらい、自分でつくらんと」。「土があれば何でもできる」。夫婦で懸命に「耕した」という話を、何度となく聞かされました。それは、かつて多くの日本人がしていた「農を中心に据えた生き方」です。
高度経済成長期に大阪へ出た寅夫さんは、還暦後に身軽になったところでもう一度、「農」の中に身を置き、最期までその思いを貫いたのだと思います。そう思い至ってから、それまで寅夫さんがやってきたことの全てに納得がいきました。同じ頃、三女夫婦もそう考えていました。

『桃源郷』との出会い

寅夫さんとフサコさんに初めて出会ったのは、ブラウン管の中でした。ひと回り年上の先輩、藤田史博ディレクターが、25年前に寅夫さんとフサコさんを取材し、制作した番組を見たのが始まりです。先輩は寅夫さんとフサコさんの山暮らしを、「老人の自立」と据えていました。しかし、寅夫さんとフサコさんの生活が、「自立」とは考えられなくなったため、3年で取材をやめていたのです。
私は先輩の番組を見て「お二人は今も元気なのだろうか?」と、素朴な疑問を抱きました。先輩に「取材をしたい」と伝えたところ、快く了承してくれました。先輩は当時、制作現場から離れていて「先輩が戻るまで私が引き受けます」という条件付で、取材をスタートしました。
その後先輩は制作現場に戻りましたが、結局バトンは私が持ったまま。結果的に足掛け25年の記録のうち、最初の3年間を先輩が取材、その後7年間のブランクを経て、最近の15年間を私が取材しています。
初めて伺った時、息を切らせながらも力強く薪割りをする寅夫さんに圧倒されました。山の暮らしに対して、変わらない情熱を持っていることに感動しました。「この素晴らしさを伝えなければいけない」と強く思いました。あれから15年、テーマを「人間賛歌」と捉え、取材は今も続いています。

家族について

「家族」が、離ればなれになっていくのが当たり前の時代。本当は一緒にいたいのに。どうすればいいのか――もがき、葛藤する娘さんたちには「凄み」を感じました。 親を支えたいと思ってはいても、現実にはなかなかできないことです。
私自身、亡き祖父母に対して何も出来なかった後悔があります。桃源郷の取材は、まるで亡き祖父母に会いに行くような感覚でした。取材スタッフも同じです。それぞれが、自分の大切な人と重ね合わせながら取材を続けました。また、これまでドキュメンタリーを見てくれた人々も同じでした。多くの反響を頂きましたが、皆、自分の人生や家族の人生と重ね合わせています。それぞれが、「自分の桃源郷」を見つめながら感想を書いてくださるのです。 世代や性別、おかれている環境によっても、見方や感じ方は様々・・・それが『桃源郷』。この映画が、人それぞれの「大切なもの」を見つめ直すきっかけになるとうれしいです。

佐々木聰監督プロフィール

昭和46年5月5日生まれ、44歳。山口県出身。平成7年に山口放送入社後、制作ディレクター・報道記者を経て平成19年よりテレビ制作部配属。情報番組を担当する傍ら、ドキュメンタリーを制作する。平成22年放送文化基金賞(放送文化 個人・グループの部)、文化庁 平成27年度(第66回)芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。制作した主な番組に「奥底の悲しみ」シリーズ〈日本放送文化大賞グランプリ、民放連賞(報道)最優秀賞、文化庁芸術祭優秀賞〉、「笑って泣いて寄り添って」シリーズ〈文化庁芸術祭優秀賞、民放連賞(放送と公共性)最優秀賞、日本放送文化大賞グランプリ候補〉、「20ヘクタールの希望」シリーズ〈民放連賞(報道)優秀賞、ギャラクシー賞選奨〉ほか。