
ご昭和ください ブログ
昭和の土曜日PART2
2020年09月20日
昭和46年生まれ49歳、高橋裕です。
今週は「昭和の土曜日PART2」で30分。
当時民放局の夜9時台はドラマの競争でした。
「スクール・ウォーズ」、「熱中時代」、
「池中玄太80キロ」と懐かしかったです。
昭和50年3月に高校を卒業し、3月半ばには就職で上京しました。
工員20名程度の小さな縫製工場でした。もちろん寮生活です。
寮の大半は東北のひとばかり。
私の同僚も岩手出身二人、山形一人、新潟一人。
先輩も同じく山形・岩手・青森・新潟の方。
私だけ宮崎出身。でも仲良しでした。
何もかもが新鮮で楽しかった。
土曜日は隔週で夜間学校に通う日でした。
服飾の勉強を学費会社持ちで勉強できると
条件付きで入社したんです。
でも、本心はイラスト書けないし、
面白い学校ではありませんでした。
仕方なしに勉強していたある日、
大好きなnspのコンサートが中野サンプラザでありました。
今も忘れません9月6日の事。
右に曲がれば中野サンプラザ、左に曲がれば学校という
分岐点で右に曲がった私と岩手出身の同僚。
チケットないのに学校のカバンかかえたまま右に曲がり
当日券売場へ。丁度2枚空いていて迷うことなく
コンサート会場に入った2人。
学校では無断欠席した2人を探していたようです。
翌日社長にこっぴどく叱られた事は言うまでもありません。
それでもいい思い出です。土曜日の夜は半ドンで
勉強に勤しむ昭和の日々でした。私の青春そのものです。
昭和の土曜日と言えば、
小学生の頃は土曜牛乳を飲んで一斉下校で帰宅して
袋麺を自分で作って「土曜サスペンス」を見ながら食べて、
遊びに行くと言う典型的過ごし方をしてました。
「昭和の土曜日」と言って思い出すのは、
毎週土曜日に開催されていた映画館のオールナイト上映です。
社会人1年生の時、勤務していた会社では、
毎月、映画の招待券が抽選で従業員に配布されていました。
当時の萩市では、喜楽館と東映という2つの映画館があり、
喜楽館は新作を中心とした人気映画を、
一方、東映では成人映画が中心に上映されていました。
人気は喜楽館に集中し、東映の招待券は人気がなく、
特に女性が当選した場合は辞退する人が多かったかと。
小心者の私は「東映の招待券を欲しい」とはなかなか言えず、
友達が欲しいと言っているので譲ってほしいと、
成人映画見たさに頼んでなんとか手に入れたことがあります。
さすがに、同僚の独身女性には自分は行かないと説明して
ごまかしていましたが、実際には悪友と見に行ったかと思います。
当時はビデオはおろか、DVDもない時代、
Hな映画は新人社会人の登竜門のようなもので、
興味をそそるものでした。なお、映画館に入ったものの、
オールナイトで映画を見た記憶は全くありません。
成人映画についてもあまり覚えていません。
当時、小学校の低学年。まだこの頃は学校は勿論半ドンでした。
3時間目で授業が終わり、自宅に帰ってから、
当時正午から生放送していた「KRYナマナマ55分」を見ながら
昼食を食べてました。昼のメニューはなんとなく、
麺類が主だったような記憶があり、
食べていたのは母が作ってくれた、チャンポンや、うどん、
又はラーメンでした。
夕方からは1時間位、スイミングスクールに通い、
帰ってから、晩の楽しみは、人気絶頂だった
「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」を見るのが
最高の一時でした。
とにかく土曜日は朝から晩まで丸1日スペシャルでした。
小学校の授業も図工の時間が2時間も有り、
土曜日は学校に行くのが楽しかったぁー♪
下校して「KRYナマナマ55分」を観ながら、
「ちびろく」を食べ、そのまま市営団地の広場へ直行し
夕方までタップリ野球して帰宅。
更に、帰宅してからも楽しみ満載な土曜日♪
先ずは、「タイムボカンシリーズ」に始まり
「まんが日本昔ばなし」
「俺はあばれはっちゃく」
「8時だよ全員集合」
「オレたちひょうきん族」
「ゴールデン洋画劇場」がツマランかったら
「Gメン75」なんですが…
Gメンが香港マフィアスペシャルの時は迷わずGメンでした!
さて、次週9/27は新テーマ「昭和のきのこ」で行きましょう。
昭和の山口県の山は松茸がわんさか採れたんですかね~。
なめこに、マッシュルーム、サラダきのこにマリオの敵キャラ、
きのこの山etc.お待ちしてます!