
ご昭和ください ブログ
昭和の車内販売
2025年10月26日
今週は「昭和の車内販売」で30分。
今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
母方の爺さんは、とても旅行好きで父親が早くに亡くなった自分達を不憫に思っていたんでしょう、年に数度、兄と2人電車で旅行に連れて行ってくれてました。
いつも、爺さんは列車に乗るとすぐにワンカップの日本酒とちくわを買って一杯ひっかけ、自分達にはゆで卵と冷凍みかんを買ってくれてました。
旅の思い出は、行った先の出来事より、車内販売で買ってもらって食べた、卵とみかんの方が残ってますね。
≪今年29才のリスナーさん≫
小学校高学年から中学生の頃に、宇部から熊本市に居る母の妹の所へ夏休みに一人で列車に乗って行っていました。
一度、隣に座ったおじさんが車内販売でサンドイッチを買ってくれました。当時、住んでいた辺りにサンドイッチを売っているお店なんてありませんでした。紙の箱にキッチリ入っていました。
≪65才のリスナーさん≫
昭和51年頃だったと思いますが、新幹線での下りの弁当販売は、あの帝国ホテルが作ってた様でした。
東京から徳山まで従兄弟と帰り、社内販売の帝国ホテルの弁当を買いました。お茶は白っぽいプラスチック容器に入った、熱いお茶でした。
その少しお高い帝国ホテルの弁当をそれぞれ2人で食べました。とても美味しかった思い出があります。特にフルーツのネーブルは、とても甘くて美味かった。従兄弟は、何を間違ったか、そのネーブルを床に落としてしまいました。僕が「ネーブルが一番美味しかった」と言うと、従兄弟は、とても悔しがってました。大学生の頃の思い出です。
≪64才のリスナーさん≫
自分が小学校低学年の頃、両親の故郷が長野だったので、夏休みに母と姉と3人で長野に行った時、まだ新幹線が東京まで走っていなかったので、宇部から名古屋まで寝台列車を使い、名古屋経由で長野に行きました。寝台列車では車内販売は無く、翌日の中央線の特急電車では車内販売があったと思いますが、母は旅費の節約のため、前日からおにぎりをにぎり、水筒にお茶を入れ持参し、私たちに食べさせました。自分は内心、車内販売を羨ましく見てました。冷凍ミカンがとても気になりました。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
子供の頃にタコ坪の様な駅弁を食べた記憶が有ります。でも、大抵が「次に売り子の台車が来たら、買ってあげる」ではぐらかされていました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の車内販売で思い出すのは、高校の修学旅行ではじめて乗った新幹線の車内販売のお姉さんを思い出します。
ドアが開くとまず頭を下げて一礼。その後は「コーヒーにサンドイッチ、アイスクリームにお弁当はいかがでしょうか」と綺麗なお姉さんが台車を押してやってくる。注文の度に止まって対応される姿に見とれてました。なけなしの手持ちの小遣いから、思わずアイスクリームを買ってしまいました。「ありがとうございます。」と明るい笑顔に胸がどきどきしたのを覚えてます。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
中学の修学旅行は 兵庫・広島・山口方面に新幹線で行きました。2両ほど貸切で女子校だったため元気な女子がぎっしり。
車内販売のお兄さん、お姉さんがとっても若くて、ちょっとカッコイイ人もいて、通る度にちょっかい出して盛り上がって、みんなで一緒に撮った写真が 良い思い出です。全然買わないのに引き止めてばかりでごめんなさい。
さて、次週11/2のテーマも「昭和の車内販売」で行きましょう。我慢した・買ってもらった思い出、同じ商品でも欲しくなる、定番の硬いアイスクリームetc次週もお待ちしております!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=_t7SdnWd92s
テーマは「昭和の迷った買い物②」
レーザーディスクを見て「わかんな~い」と言う平成生まれの野口アナをご覧ください。
昭和の無駄 PART2
2025年10月19日
今週は「昭和の無駄 PART2」で30分。
今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昭和40年代初頭、カラーテレビが裕福な家庭から、じわじわと普及していました。しかし、一般家庭でカラーテレビはまだまだ高嶺の花で、カラーテレビは買えないけど「アンテナだけカラーテレビ用のアンテナを取付ける家」がありました。近所に対する完全な見栄ですが、白黒テレビにカラーテレビ用のアンテナを付けても特に効果は無いと思います。因みに我が家は、昭和42年頃に16インチのサンヨーサンカラーを16万で買ったと聞いてます。
≪今年77才のリスナーさん≫
中学生の頃、帰りに店によって、かき氷・竹輪等を食べる。(通い帳)に記入して帰る。数日後、親がまとめて支払う。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
小学6年生の時、クラスに気になる女の子がいましたが、当然話かける事も出来ず、心の中で「いいなぁー」と思っているだけでした。
ですが、その子が席替えで隣になって、いつも給食で牛乳を残すので、思いきって「飲めないんなら、ワシが飲んじゃろうか?」と言ったら「いいん?飲んでくれる」と言ってくれました。それからずっと、小学生活が終わるまでその子の牛乳を飲んでました、でも、それだけで、期待する様な出来事は何一つ起こること無く、無駄な努力でした。さらに、他の牛乳が苦手な女子3名からも頼まれて、毎日5本の牛乳を飲んでました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
「昭和の無駄」で思い出すのは、『缶切りのコルク抜き』です。そう、中央に畳まれているネジネジした部分です。
家庭によると思いますが、うちはワインなど嗜む家庭ではなく全く使うことはありませんでした。
平成になって、専用のコルクオープナーを使いましたが、専用のものでも上手く回せなかったです。
缶切りにおまけのように付いたものではきっと失敗ばかりだったと想像します。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の無駄(な買い物)で思い出したのは、
ガンプラの抱き合わせ商法で買わされたプラモデルです。
欲しくもない「モビルスーツみたいなモノ」のプラモデルを何個買わされたことか。
≪昭和27年生まれのリスナーさん≫
バイクや車の「暖機」。
キャブレターのチョークを引いてエンジンを掛け、バイクはシリンダーヘッドが少し暖まったら、車は水温計の針が動いたらチョークを戻し・・・と今考えるとガソリンを無駄にしていたと思います。
当時は、それ前提のエンジン設計なので仕方無いかな。
でも、私が最初の車を持った昭和四十七年の手取りが二万五千円位で、レギュラーガソリンがリッター四十五円位だったので、決して安くは有りませんでした。手取りが二十五万円で、リッター四百五十円だと考えると高いでしょ。
さて、次週10/26のテーマは「昭和の車内販売」で行きましょう。特急列車の中、フェリーの中、観光バスの中…、飲食・お土産、欲しいものが多かったなぁ。会社の社販じゃないですよ~。
次週もお待ちしております!
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テーマは「昭和の迷った買い物」
山根さんのおばあさんはフエキのりの代わりにお米で貼り付けていたとか。
昭和の無駄
2025年10月12日
今週は「昭和の無駄」で30分。
今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和27年生まれのリスナーさん≫
私が中学生の頃、ちょっHな本を勇気を出して初めて買ってみました、本当に見たい所は黒く塗りつぶしてあり、もしかして消せると思い、洗剤・シンナー・バター・全部、「無駄」でした。
≪昭和31年生まれのリスナーさん≫
産後間もない私はブクブク太っていました
そんな私に目をつけたのが、補正下着の訪問販売の女性2人組。話を聞くだけのつもりが。上手い口車に乗せられて、買ってしまいました。お腹をギューっと締めつけるボディースーツに足のたるみも締めつけるパンスト、着替えの分も入れ2着セット。占めて30万位したでしょうか?
痩せるつもりで買ったのに、着るのにひと苦労するので、数回しかつけませんでした。
残るはローンのみでした。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
スマホなどの携帯できる通信機がなかったころ、待ち合わせなどで無駄な時間を過ごすことがありました。
ちょっとしたことで待ち合わせ場所や時間を間違えたり、何かのアクシデントで約束の時間に間に合わなかったり・・ということで「待ちぼうけ」を喰らうことなど、そんなに珍しいことではありませんでした。
平成になったからポケベルが登場し、ケイタイ、スマホとなった今では、待ち合わせのすれ違いで無駄な時間を過ごすことがなくなりましたね。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
中学生の時、英会話が上手くなりたいと雑誌で見た教材を買いました。小遣いをコツコツ貯め送られてきたのは赤い色のソノシートのレコードでした。第一巻だけテキストを読みレコードをかけて聴きましたがそれきり聴きもしませんでした。勿体ないからと嫁に持って来ましたが日の目を見ずに処分されました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
初めて食品用の「ラップ」を見たのは小3の頃です。お母さんがスーパーで働いている友達の家に行って見せてもらいました。「これは何だ?!」と驚きました。どのように使っていたのか覚えていませんが、その後、我が家に登場した時には洗って干して何度も使っていました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
若い頃、テレビドラマで【刑事物】が流行っていました。犯人が人質をとって、立てこもり。
警察が『無駄な抵抗はやめろ!お前は完全に包囲されている。』そして、犯人のお母さんが登場して、泣き崩し作戦。お決まりのパターンでしたが、よく見ていました。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
身体測定の座高ですね。
意味がないから今では廃止されたと聞いてます。
なのにあの頃いちばん気になるのは座高でした。
座高が高いイコール足が短い。少しでも座高を低くしようとして悪あがきをしていました。あの悲しい無駄な時間。あとから思えばいい思い出になど決してなりません。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
我が家に初めて冷蔵庫がやってきたのは小学生の低学年の頃です。扉には鍵穴が付いていました。もちろん鍵もありました。私は鍵を使った記憶はありませんが、親はどんな時に鍵で閉めていたのでしょうか?時々、閉まっていたような気がします。
メーカーとしては勝手に開閉できないようにというつもりだったのでしょうが、いくら高級家電と言っても鍵付きは無駄だったのではないでしょうか?
さて、次週10/19も「昭和の無駄」で行きましょう。山根さんお望みの“ムダ遣い”、健康器具、通販でカメラ買ったのにおまけでついてきたポケットカメラetc昭和の頃のあれは無駄だったなぁと思うものをお待ちしています!
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https://www.youtube.com/watch?v=4YQC8SF4v6Y
テーマは「昭和の応援 PART3」
人並みに「夏バテ」と言ってみたかった山根さんをご覧ください
昭和の透明
2025年09月28日
今週は「昭和の透明」で30分。
ちょっと書きにくいテーマかと思いきや、そこは我れがご昭和リスナーの皆様、たくさん寄せられました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
宇部の街中がとても賑やかだった頃。銀天街のアーケード横に建っていた「中央大和」(ちゅうおうだいわ)。そこには入り口横の外向けにエレベーターが設置されていまして、これが登り降りしながら外の景色が眺められる透明。まるで遊園地の乗り物に乗ったようでした。今でこそ珍しくありませんが初めて乗った時は感激しました。
≪54才のリスナーさん≫
私にとって昭和の透明は、スーパーカー消しゴムです。当時、20円のガチャで3cmぐらいのゴム製のスーパーカーが出てくるのですが、中には、透明なものも入っていて、それを引き当てただけでもテンションが上がっていました。
そして、中に“当たりの紙”が入ったカプセルを引き当てると、長さ10cmを超える特大のマツダサバンナRX-7の消しゴムがもらえました。私も一度だけ引き当ててもらったのが緑色の透明なタイプのものでみんなに自慢したのを覚えています。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
小学校低学年の時、理科でヒヤシンスの水栽培をする為に球根を育てる容器を買って来なさいと言われました。ホームセンターなんて無い時代で、友達と少し離れた種物屋さんに行って、綺麗な色の青か緑色の容器を買って帰ると、その友達の親から「透明じゃないと根の観察ができないでしょ!」と言われて交換をしにいった悲しい思い出があります。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和の透明、それは喫茶店で飲むアイスコーヒーの中の透明な氷ですね。昔の冷蔵庫は、今みたいに自動で氷ができなくて、冷凍室で製氷皿で作っていて、水を一度沸騰させて作るといいとか、製氷皿の下に割り箸を置いとくといいとか言われたのでやってみても透明になりませんでした。
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昭和の透明で思い出すのが、カセットテープの真ん中の透明な小窓です。カセットテープの出始めの頃はテープ残量がわかる最低限度の小窓でしたが、そのうちカセットの半分位が透明になり、終いにはケースが全部透明で、オープンリールテープの様なリールが丸見えのカセットテープがありました。
≪昭和44年生まれのリスナーさん≫
昭和の子供の透明と言えば、野球で遊んでいた時の「透明ランナー」です!!
小学生の頃、友達と野球をして遊んでいました。野球と言っても1チーム3人か4人ぐらい。キャッチャーは無しで盗塁も無し、守備位置は適当。野球と言うより、投手の投げた球をとにかく振る!!みたいな「野球ごっこ」でした。
そして、攻撃の時にランナーが出ると「透明ランナー」の出番でした。その後、今のは透明ランナーがアウト!とか、透明ランナーはセーフ!とか、そんな事を言い合ってました。勿論、審判など居ないので、お互い都合の良い判定。でも、真剣勝負ではなくお遊びでやっていたので、ケンカに発展するとかは無かったですね。
さて、次週10/5も「昭和の透明」で行きましょう。山根さんが言ってた「透明人間」はありゃぁ冬は寒いで~服着たら何処にいるかばれちゃうし、高橋少年は中学の頃、透明な下敷きカードケースに平凡ソングの切り抜きを入れてたetc昭和時代の「透明」にまつわるエピソードをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=8r3FsKKq3jk
テーマは「昭和の応援」
高橋がお休みさせてもらった回でして、代打渡辺さんの魚肉ソーセージのビニールの見事な剥き技をご覧ください!
昭和の迷った買い物 PART2
2025年09月21日
今週は「昭和の迷った買い物 PART2」で30分。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
初月給で橋幸夫さんのLPを買いました。高くて迷いましたが、家族で応援していたので思い切って買いました。嫁に持って来て、今もあります。
≪昭和44年生まれのリスナーさん≫
私が小学生の頃、父が自家用車の購入で迷っていたのを思い出します。
私の父は大工でした。それまでは2ドア車に乗っていたのですが、大工道具を入れるのに普通の車のトランクでは狭いし、家族で乗るには2ドアは不便…と言う事で、4ナンバーのバンタイプの車を買う事になりました。それまでは中古車を買っていたのですが、一念発起して新車を買うと言う事で、私も嬉しかったのを覚えています。
スターレットのバンとサニーのバンが候補。どちらにしようか迷っていたようでしたが、父は最初スターレットのほうが気に入ったらしく、家で毎日のようにスターレットのカタログを見ていました。私も一緒に見ながら、「これが次の車かぁ。」とワクワクしていました。なのでスターレットを買うのだろうと思っていたら、土壇場で父の気が変わり、サニーのバンを買う事になりました。
真っ白のサニーのバンは、エアコンも無し、AMラジオしか付いていませんでした。今では信じられない装備ですが、当時はコレが普通でしたね。快適装備など何も付いていないバン、それでも我が家初の新車で凄く嬉しかったです。
普段は仕事で、そして家族で出かける時はこの車でした。普段は父が仕事で使っているので車内はいつも木の匂いというかオガクズの匂いがして薄汚れていましたが、約10年間我が家の愛車だった白いサニーのバンは、私を育んでくれた家族の思い出の車でした。
≪昭和37年生まれのリスナーさん≫
昭和の迷った買い物。小学生の時の月刊雑誌「科学」or「学習」です。勉強熱心で裕福な家庭の子は両方取ってましたが科学だけの子が私の周りでは多かったような気がします。
僕は「どうせ読まないだろう」と言う理由で親が取らなかったけど、迷った挙句どうしても読みたい時だけ駄々をこねて親からお金をもらい直接本屋に行って買ってました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
車種は決まっていたのですが、装備で「サンルーフ付き」にするか「ノーマルルーフにするか」で迷いましたが、元々スポーツカーのオープンカーに憧れていたので「サンルーフ付き」にしました。
夏場でも窓全開とサンルーフを開けていればエアコンは必要なかったです。特に海岸沿いの道路を走るときは気持ちよかったです。
≪昭和★★年生まれのリスナーさん≫
「昭和の迷った買い物」で思い出すのは、『ステレオコンポ』です。
他のメーカーと迷って選んだメーカーは「SUNSUI」。決め手は、曲の頭出しができるレコードプレーヤーでした。3曲目とセットするとLPの3曲目に針が落ちて曲が流れる画期的な機能付き。ただ、レコード盤によっては曲間を判定できないこともあったような記憶が。最先端を攻めすぎたコンポだったのでしょうかね。
≪昭和31年生まれのリスナーさん≫
昭和で迷った買い物と言えば、
高校入試合格祝いに買って貰った『ラジオ』です。
当時、ナショナル&SONYが人気でどっちにするか迷ったもんですが、私はナショナル『ワールドボーイ』を買って貰いました。当時はナショナル派かSONY派に分かれてどちらかを手にした友達は多かったです。
≪70才のリスナーさん≫
昭和57年、下関から光へ「意に反する転勤」となりました。頭に来て「高い物を買ってやろう」と思い、徳山の電気店に行き、映画のビデオテープを購入しました。やけ買いですね。
当時はビデオテープは高く、1本2万円くらいでした。その時に、「ローマの休日」を買おうか、「実写版・鉄人28号」を買おうか迷いました。
「ローマの休日」は私にとってのベスト映画で、鉄人の方は、昭和35年製作の価値ある実写ドラマでした。ビデオコーナーで30分以上悩んで、結果、「ローマの休日」を選びました。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
就職して、初めてのボーナスをもらった時に、ビデオデッキを買うことにしました。当時ビデオデッキも出始めで、大手メーカーが、VHSとベータのふたつに分かれてまして、友達もテープを借りるのに一緒じゃないと無理だから、自分が買う方に合わせて買うと言って来たんで「責任重大」となり、かなり迷いました。結局VHSを買いました。
さて、次週9/28のテーマは「昭和の透明」で行きましょう。映画「透明人間」、暗記用に引いた赤いマーカーが透明になる、金魚の水槽、マント、ビー玉、しょうゆ差し、透明ドリちゃんetc昭和時代の「透明」にまつわるエピソードをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=jZewJxPi93o
テーマは「昭和の一人で遠出②」
山根さんは、友達と「なんぼ持っちょる?」と訊きながら飲んでいたそうな。
昭和の 迷った買い物
2025年09月14日
今週は「昭和の迷った買い物」で30分。
予算が限られているとか、ひとつしか買ってもらえないとかで迷うんですよね~。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
子供の頃、切手を集めておりました。
外国の切手は売っている所が近くになく、もっぱら通信販売でした。
毎月一回、ワンセット100円から300円ぐらいの切手が10セット送られて来て、好きな物を選び、残りの切手と、買った分の金額の、郵便局で売っている定額小為替を、同封して返送するというシステム。今、考えると信用と信頼に支えられてる素晴らしいシステムでした。
毎回、迷いましたが、お金ないので、お安いセットばかり買ってました。お安い切手は、ハンガリーやポーランド、ルーマニアなどの東ヨーロッパの国が多かったです。
後から知りましたが、切手の輸出は、外貨獲得の為に貴重な方法だったようです。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
高校生の時、同じ時期にThe Go-Go’sとAC/DC の来日公演があり、両方行くのは経済的にも時間的にもキビシイのでどちらのチケットを買うか迷いました。
その時のAC/DCの曲もめちゃカッコよくて好きだったのですが、でも女の子バンドをやっていたこともあって私はやっぱりGo-Go’sだよね~♪と思ったのですが、一緒に行く友達グループの中で Go-Go’sに行きたがったのは私だけ。結局、多数決で負けてAC/DCのコンサートに行きました。
学校帰り、駅のトイレで着替えて会場前で入り待ちしていた時も私ひとりGo-Go’sを歌って盛り上がってました。
でもとにかくAC/DCはオープニング曲 For Those About To Rockのイントロが最高にカッコよくて、今でも大好き!!AC/DCに行って良かった!
≪昭和??年生まれのリスナーさん≫
バブルで好景気に沸いていた時に、先日亡くなったジョルジョアルマーニのブランド傘を買いました。一万円を超える傘なので少しためらいましたが買っちゃいました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
お年玉で少女雑誌の「りぼん」や「なかよし」を買おうとお店の前を何度うろうろしたことか。付録が豪華で厚く盛り上がった雑誌が買いたかったけれどついつい勿体なくてやめました。正月が過ぎてお年玉は母の元へ移りました。でも貸本屋さんがあって借りることが出来ました。貸本屋のおばちゃんが付録を譲ってくれました。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
小学5年の時に放送が始まった宇宙戦艦ヤマトを観て天体望遠鏡が欲しくお金を貯め始めました。
中学になると、友達のやっちゃんが「野鳥を撮りたい」とカメラを買いました。やっちゃんの家に行くと、勉強机の2番目の引出しから取り出したのがフィルム式の一眼レフカメラ。
フィルムの装填、重厚なシャッター音、
レンズの交換、会社名の入ったストラップ、
全てがカッコイイ。
雑誌で見る望遠鏡or実物が目の前にあるカメラ。
貯めていたお金はカメラ変わりました。
キャノン、ニコン、ミノルタ。
メーカー選びも悩みましたが、
ロゴに惹かれ、旭光学に決めました。
さて、9/21も「昭和の迷った買い物PART2」で行きましょう。A定食かB定食か、スキー板、ラケット、フィミコンかセガ、VHSかベータetc昭和時代に迷った挙句買った・買わなかった、その後のエピソードも含めてお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=r9d0IM8giNA
テーマは「昭和の一人で遠出」
道がわからなくなったら店に入って訊く!これ鉄則
昭和の 応援PART3
2025年09月07日
今週は「昭和の応援PART3」で30分。
3週連続同テーマですが、今回もたくさんメッセージは来ましたね~。
≪昭和44年生まれのリスナーさん≫
下松市内の某工業高校に通っていましたが、その当時の高校野球の応援を思い出します。高校野球の山口県大会の予選が始まると、1年生と2年生は野球の応援に行かなくてはなりませんでした。1年生の時、初めての応援を控えて、応援団の先輩がたが教室に来て校歌や伝統の応援歌を教えに来るのですが「お前ら!声が小さいんじゃゴルァwww!!」と大声を出し、いきなりカオスな状況。さすがに体罰などはありませんでしたが、あまりの空気にみなドン引きでした。
そして、野球の応援当日。夏休みが始まっていたので徳山市野球場までは現地集合。そして野球部の応援が始まりますが、当時は「運動中に喉が渇いても水を飲むな!!」の時代。野球部が頑張っている時に応援する生徒の水分補給などは許される訳がありませんでした。でも、吹奏楽部や応援団などは水分補給が許されていて、彼らが冷たいお茶をゴクゴク飲むのを見て、凄く理不尽なものを感じたのを今も覚えています。
応援が終わると、速攻で野球場の近くにあったスーパーに行き、ジュースの自販機で1リットル瓶のコーラを買い、ラッパで一気飲みしました!!
この時のコーラ、ぶち美味しかったのは今も忘れられません。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
小学校2年生の運動会でした
当時、校区の中を分団で分けていて私が住んでいた所は第3分団でした。分団対抗のリレーがあって各学年から男女一人ずつを選抜して競いました。足が遅かった私がまさかのリレーの選手に選ばれて、親は大喜びで応援してくれました。
何故、私が選手になれたかというと、2年生の女子は二人しか居なくて相手の子は私よりまだ遅かったのです。当日、父は私をカメラにおさめてくれましたが、私の前後は誰も写っていなくて独走状態。6年生の男子がその年の文集に「ウチの分団は2年生の女子が遅かったのでビリだった」と書いていてひどく傷つきました。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
高1のとき、高校野球応援のチアガールに「くじ」で当たってしまいました。仕方なく、燃えろいい女とか、ヤングマンとかを踊りました
うちの弱小野球部がベスト8までいってしまい、もう大変の日々でした。ただ、学ラン姿の応援団長は何となく格好よかったです。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
私は、高校の時、応援団長をしました。
応援団長といっても、自分から成ったわけではなく、抽選で仕方なく選ばれた「成行き応援団長」でした。
当時、応援練習の風景がKRYのニュースで放送されました。
そして、その年の秋、文化祭のステージで歌を歌わされる羽目になり、かぐや姫の「加茂の流れに」をクラスの友達と二人でギターを弾きながら歌いました。応援団長をしていた私は生徒に面が割れているので「よっ、団長!!」と冷やかしの声援。
紙テープやトイレットペーパーが飛んできました。
さて、9/14は新しいテーマ「昭和の迷った買い物」で行きましょう。ショーウインドーに飾ってあったギター、ファミコンのカセット、ラジコンのモーター、自分には不釣り合いのモカシンの靴etc昭和時代に迷った挙句買った・買わなかった、その後のエピソードも含めてお待ちしています!
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テーマは「昭和の真夜中②」
今週も山根さんのユニークなお友達のお話が満載です!
昭和の 応援PART2
2025年08月31日
今週は「昭和の応援PART2」で30分。
今週もいっぱいメッセージは来ましたね~。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
中学の時からアメリカのロックバンド・チープトリックが大好きで、ちょうど高3の時、レコード会社とのトラブルなどで低迷していたので、つたない英語で 応援ファンレター(ハガキ)を毎週1枚アメリカの事務所に送り続けました。印象に残るよう、毎回、「Have a happiness!」という変な決まり文句を添えて。彼らへ応援ハガキを送り続けることは、受験生で不安いっぱいの自分への励まし心の拠り所でもありました。今でも全く形式的なものではありますが、今でも、毎年チープトリックからクリスマスのハガキが届きます。
≪昭和48年生まれのリスナーさん≫
小学生や中学生の頃、12月に開催される「防府読売マラソン」の応援に、毎年行っていました。あの頃のコースは、右田中学校発着で徳地が折り返しの、佐波川沿いを走るコース。
まずは、スタート地点の右田中学校に行き、スタート前の緊迫した雰囲気を味わうのが楽しみでした。
レースがスタートしてからは、歩道を一生懸命ダッシュしながら「行けー!頑張れー!」と応援したり、自転車で猛ダッシュしながら熱烈応援していました。
それでも、子供の足で一生懸命走ったり、自転車を漕いだりしても、選手達はドンドン離れていく。
「マラソン選手はメチャクチャ足速いなぁ!あの速さで42.195k 走るのはブチ凄い!」と、毎年毎年、驚嘆していた事も本当に懐かしいです。
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
昭和58年頃、私が高校1年の時、防府市公会堂であった田原俊彦さんのコンサートに行きました。会場内は、女の子の黄色い声援が響き渡り圧倒されました。コンサート終了後、外に出ると、ずっと声援の大音響を聞いていたので耳が詰まり、しばらくツバをゴックンゴックンしていました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和55年、高校1年生の文化祭です。
初めて見るステージの演奏は先輩男子バンドの
Deep Purple 「Highway Star」。
ハードロックの大音響と、上下白の衣装で熱唱する先輩への最前列に陣取った女子から飛ぶ熱い声援にビックリ。アイドル以外で「キャーキャー」叫ぶ女子を見て「ハードロックってモテるんだ…」と感じた16歳でした。
さて、9/7も「昭和の応援」で行きましょう。久々の3週連続テーマ。球場のスタンド、応援中に飲み食い、チアガール、応援団長、校内マラソン大会etc昭和時代の応援にまつわるエピソードをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=6z8S4ZxqDOw
テーマは「昭和の真夜中」
深夜放送にまつわる思い出が多いですね~。
昭和の 応援
2025年08月25日
今週、高橋裕はお休みをいただきまして、
昭和34年生まれの66才の山根さん、昭和33年生まれ67才の渡邊三千彦さんの2人で井戸端トーク。オープニングから長い!
テーマは「昭和の応援」で30分。
今週もいっぱいメッセージは来ましたね~。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
小学5年生の運動会で赤組の応援団に入りました。今思えば、相当な引っ込み思案の私が応援団になるなんて、不思議でなりません。体操服のブルマー姿は絶対に見せられませんが女子はみんな嫌でしたね。今はパンツタイプだから羨ましいです。
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
昭和の応援ですが、PL学園の人文字です。
私、KKコンビと同級生なのですが、昭和60年のPL学園対宇部商の試合は忘れられません。
あの人文字の応援は、野球も強いけど、応援も強いというインパクトが大きかったです。
私の中学校は生徒数が多くて、みんなの進路など覚えていませんでしたが、宇部商に中学校の同級生がメンバー入りしていて、すごく野球を頑張っていたんだなと、テレビの前で熱く応援していました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の応援で思い出したのは、アイドル歌手のコンサートでの応援グッズです。
代表的なのは、『ペンライト』と『紙テープ』でしょう!
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
高校は下関の女子高でした。秋が体育祭でした。
応援団をクラスで何人か出すのです。私もなりたくて立候補したのですがなれませんでした。
なにせ、そのメンバーのビジュアルのレベルが高くて(笑)
でも、好きで放課後練習するのをみたりしていました。私達のクラスはシブがき隊の「ぞっこんLOVE」と浅香唯の「Cガール」でした。ラジカセで音楽を流して練習するのですが、「せーの」と、いって再生ボタンを押すのに、「ガチャっ」と、カセットテープが飛び出し大笑いしました。
でも、本番では、大成功だったと思います。
その甲斐があってか、優勝していました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
父は足が速く、お祭り騒ぎが大好きでした。学校や町内の運動会でも力走。なので、私達子どもの徒競走の時は大きな声で名前を叫び応援するのです。私は足が遅くとても恥ずかしかったことを思い出します。
≪昭和31年生まれのリスナーさん≫
田舎生まれ田舎育ち、勉強は出来ずやらずの不出来な私ですが運動会は好きでした。
父は妹弟が多く下の方の叔父とは私の方が歳が近かったです。小学校の運動会には父がその叔父達も呼んでいたので、今思えば母はお弁当作りが大変だったでしょう。その叔父は、父と似てはいましたが、父よりはるかにカッコ良くオシャレだったので、まわりの保護者達から「あのカッコイイ人は 誰かね…」なんて声が聞こえ、私はちょっと誇らしく、叔父や叔母が応援に来てくれるとお小遣いも貰えたのでそれも楽しみだったのでしょう。
さて、次回8/31も「昭和の応援」で行きましょう。プロ野球、体育祭、アイドル、コンサート、アルプススタンド、プロレス、相撲、こっそり応援etc昭和時代の応援にまつわるエピソードをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=qrzfR08Z6zw
テーマは「昭和の親父の趣味②」
今週は、上田アナの超能力に迫る!乞うご期待!
昭和の 一人で遠出 PART2
2025年08月17日
今週は「昭和の一人で遠出 PART2」で30分。
今週もたくさん寄せられました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和47年、短大の入学金を納める為に現金を持って一人で西宮市に行きました。金額は35万円くらいで大金でした。新幹線も東京、岡山間しか通っておらず急行で行きました。支払いと同時に、制服がある短大だったので採寸などで本人が行かねばならず、親が同行すれば旅費が要るので、私、一人。途中で何事かあってはいけないので、親がお金を下着に縫い付けた袋の中に入れてくれました。支払う時に服をまくって出さなくてはならなくて恥ずかしかったです。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和59年、中型自動二輪免許を取って初めてのツーリングのこと。当時、住んでいた愛知県北西部から国道41号を愛車「RZ250」であてもなく北上するプランです。1時間ほど走ったところで、信号待ちしていると1台のオフロードバイクが並びました。ふと見ると同じバイクショップのステッカー、また、ナンバーがなんと1番違い。年が同じくらいの彼と意気投合して、彼の目的地・下呂温泉に行き、ひとっ風呂浴びました。帰りは一緒に地元に戻った不思議な出会いでした。
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昔、父から伝え聞いた話です。
太平洋戦争末期、父の姉(私の伯母)は兄のいる山形県まで一人で会いに行ったそうです。どういう経路で、どうやって山形まで行ったのかは分かりません。兄と合流して二人で山口に戻る予定でしたが、台風か、集中豪雨の影響で最上川が氾濫し、街中が壊滅状態に。鉄道や道路は崩壊し、家族と連絡も取れず、ただ山口を目指して線路沿いを歩いたそうです。そんな時に兄に召集令状が来て、行方不明と申告するのに、「徴兵を拒んだ脱走ではないか」と大騒ぎになったそうです。そこへ二人が無事帰還。家族みんなで、ほっとしたそうです。線路沿いを歩いたので足の裏は枕木のタールでべっとりだったそうです。その後、兄は出兵し、南の島で亡くなりました。
水害も戦争もない方が良いですね。
≪64才のリスナーさん≫
中学2年の夏休みのこと。山陽新幹線が博多までつながったこともあり、1人で長野の祖母の家に遊びに行きました。数日、祖母の家で遊んだ後、宇部に帰る時、長野駅から「特急しなの」で名古屋駅まで戻り新幹線に乗り換えたのですが、当日、台風が近づいていた為、雨がひどく名古屋で乗り換えた新幹線が数時間停車待ちをすることになってしまいました。数時間後、新幹線が発車して新山口(旧小郡)駅に深夜に到着したのですが、当然、在来線は走っておらず、タクシーで宇部市まで帰りました。払い戻しの特急料金はタクシー代で無くなりましたが、なんとか家に帰る事が出来ました。
母親は、「夕方のニュースで自分がテレビに映ったのを見て安心した」と言っていたのを思い出しました。もちろん、名古屋駅のホームで、きしめんも食べました。
さて、次回8/24は「昭和の応援」で行きましょう。野球、サッカー、駅伝、運動会、受験、アイドル、応援部、メガホン、法被etc昭和時代の応援にまつわるエピソードをお待ちしています!
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テーマは「昭和の親父の趣味」
突然♪王将を歌い出す山根さんにご注目!
昭和の車内販売
2025年10月26日
昭和の無駄 PART2
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昭和の透明
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