
ご昭和ください ブログ
昭和の階段PART2
2025年12月21日
今週は「昭和の階段PART2」で30分。今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昭和時代に、アップダウンクイズというテレビ番組がありました。クイズに正解するとゴンドラが一段上がって間違えると下まで落ち10段まで上がると飛行機のタラップの様な階段が運ばれJALのキャビンアテンダント(当時はスチュワーデス)さんからレイをかけてもらい、ハワイ行きの賞品がもらえました。キャビンアテンダントのお姉さんが、ミニスカートで階段を登る姿にドキドキしました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
子どもの頃のTV番組で見た『らせん階段』に興味がありました。父に“近所の家でらせん階段のある家”をしらない?と尋ねると、“見に行こう”と言われ
嬉しかったのですが、着いたところが学校前の“道路”。
父が指さす方向に歩道橋があり、確かにらせん階段があり、父曰く。「好きなだけ歩いてこい!」といわれたことがありました。当時は、自動車の交通量が増え、「横断歩道橋」が設置されたのですが、狭い箇所だったため、「らせん階段」で上り下りできる構造になったと、高校の授業で習いました。
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
中学生の時の部活、バドミントン部に入っていて、入部当初はラケットを振ることもあるんですが
1年生は体力をつけるためにグランドをよく走らされました。ただ、雨の日は外を走ることが出来ないんで、3階建て校舎の階段を走っていました。
かなりキツかったんで、あまりいい思い出ではないですね。
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
私が小学生の頃、叔父が東京に住んでおり、春休みか夏休みか忘れましたが、訪ねて行きました。その時に東京タワーに連れて行ってもらったのですが、何故か理由は分かりませんが、エレベーターではなく階段を使って中段の展望台まで上ったのです。子供の頃なので、言われるがままに行ったのだと思いますが、私は極度の高所恐怖症です。今でも思い出すと、体が震えてしまうな下が丸見えの階段を、よく歩いて上がったなと思います。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
通っていた下関の中学校に上がる階段が100段くらいありました。中1の時だったと思いますが、バレー部のみんなで帰っていたら、あと1/3くらいのところで、私がつまずき、おっとっとっと、落ちて行きました。一緒に帰っていたキャプテンが、45年たった今もあの時の私の姿を思い出しては、笑います。
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
昭和40年代の宇部のデパートの話。古い話なので記憶が美化されているかもしれませんが、最上階のフロアはおもちゃコーナーで、そこに上る階段は普通の作りで建物の中心部分にあり、でも、踊り場を経ておもちゃコーナーへと続く最後の数段は床が赤色、幅が広くて全体的に緩くカーブ、手すりはバロック式の(?)クリーム色で、まるでお城の舞踏会でお姫様が降りて来るような、そんな階段で、おもちゃコーナーに行く時は特別感がありました。
さて、次週12/28は2025年ラストの放送。テーマは「昭和の名作ドラマ」で行きましょう。海外ドラマは5月にやりましたので、日本のテレビドラマ。岸辺のアルバム、金八先生、時間ですよ、夕陽丘の総理大臣、Gメン75、熱中時代スチュワーデス物語etcあげたらキリがありません。皆さんのエピソードとともに、お寄せください!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=ZqdfKKnkDU0
テーマは「昭和の歌を歌った②」
山根さん、情操教育を語る!
昭和の 階段
2025年12月14日
番組スタートから14年8か月、今日の放送で、放送開始700回を迎えました!
…と、今、これを書いていて、その事実に気づいた次第でありまして、放送では何も触れず、お祝いせず・・・。
さて、そんな700回目の放送は「昭和の階段」で30分。今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和41年生まれのリスナーさん≫
私は昭和52年、小学5年の時に新築した二階建ての家に引っ越しました。私の部屋は2階でした。
転校した小学校で出来た新しい友達が家に遊びに来てくれた時のこと。楽しく遊んで帰るときに、その友達が階段から落ちてしまったのです。その数日後、別の友達も落ちてしまいました。幸い2人とも怪我などはなく無事でしたが、3度目があってはならないと、母はすぐに階段の一段一段に滑り止めをつけました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
「昭和の階段」で思い出すのは「階段あぶち」という遊びです。
小学校のとき流行っていた仮面ライダーカードの
古いカードを使って遊びます。
階段の最上段の端に相手のカードを置き、自分のカードを相手のカードギリギリに叩きつけ、風圧で相手のカードをひっくり返し、下の階段で裏返っていたら、相手のカードが貰える遊びです。
ちなみに、名古屋ではメンコのことをショウヤといいます。“あぶち”はショウヤを ひっくり返す技です
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
階段、憧れでした。小学4年まで住んでいた借家も、その後に父が建てた家も平屋でしたから。
僕が社会人になった後に増築したんですが、そこには2階があり嬉しかったです。そこの階段はかなり急で、這いつくばるように昇る、そんな感じでした。一番憧れたのは、屋根裏部屋から紐が下がっていて、その紐を引くと隠れていた階段が現れる、と言うのでした。
≪昭和30年生まれのリスナーさん≫
私が中学生の頃まで、私の実家は、わらぶき屋根の家で二階はなかったので階段はありませんでしたが、同じ敷地内にあった長屋と呼ばれていた倉庫が二階建てで階段がありました。
その階段は、使用する時だけ設置し使用しない時には天井の高さに引き上げられていました。上げ下げは電動ではなく、ロープを使って手動で行っていました。この階段は今でもありますが、昨年、兄が倉庫の二階を整理するために、階段を使用するということで補強しました。
≪昭和33年生まれのリスナーさん≫
昭和の階段で思い出したのは、引越しです。
当時は4階までの建物にはエレベーターはないのが当たり前でした。引越しもトラックは業者に頼んでいるものの、アパートの下から部屋までの運搬は呼び集められた友人、知人が手伝っていました。アパートの階段の壁はコンクリートでザラザラしており、嫁入り道具のタンスに傷がつかないよう気を遣ったものです。
私も就職した初出勤の日に、スーツ姿のまま先輩の引越しを手伝わされました。「これからご指導よろしくお願いします。」と挨拶したところ、「ワシは転出じゃけー、あんまし縁がないのう。ハハハ」と言われてがっかりした思い出があります。
さて、次週12/21も「昭和の階段」で行きましょう。らせん階段へのあこがれ、階段下の物置、雨の日の部活は階段を走るetc昭和の頃の階段にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=72Lop5DdNVQ
テーマは「昭和の歌を歌った」
山根さん、サンタルチアを「鼻から血いやぁ~」と歌って怒られたって。
昭和の 図鑑
2025年12月07日
今日は、防府読売マラソン実況中継のため、夕方4時半からの放送。テーマは「昭和の図鑑」で30分。
今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和33年生まれのリスナーさん≫
昭和の図鑑で思い出したのは、キノコの図鑑です。職場の先輩が山歩きが好きで、珍しいキノコを見つけた話をよく聞かされていました。
そこで、自宅の山に行ってみると、いろんなキノコがたくさん生えていて、小学生の頃に買ってもらった「植物の図鑑」には、キノコは見開き1ページしかなく、ほとんど役に立ちません。そこで「日本のきのこ」という分厚い図鑑を買ってみると、ハツタケ、アミタケ、ヌメリイグチ、トキイロラッパタケなど、美味しいキノコも生えていることがわかりました。
ある時、先輩と山沿いの駐車場近くで大量の食用のクサウラベニタケを見つけて大喜びで持ち帰りました。ところが、図鑑を調べたところ、ウラベニホテイシメジという毒キノコの特徴が一致し食べるのを保留しました。
翌日、2人でローカルニュースを見ていたところ、あのウラベニホテイシメジの食中毒を放送しており、「食べなくてよかった」と図鑑に感謝しました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
年に1、2回、都会の徳山に岩徳線で母が連れて行ってくれ、今はなき銀座の本屋さんに行った時は幸せな気分になりました。
当時、我が家にも、百科事典の訪問販売のセールスマンが来て、「お友達の〇〇くんのお宅でも買ってもらいました」のセールストーク。「この本は一生使えます」なんて。母が月賦で買いました。確か20冊位のセットでオマケの「植物、動物の図鑑」がついてました。3人の子どもは最初は珍しくみてましたか、そのうち邪魔になり物置にうつしました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
4歳上の兄が定期購読していた図鑑をよく読んでいました。まだ字があまり読めなかったので写真を主にめくってました。衝撃だったのは人体の図鑑。植物の図鑑では、大きな葉の上に子供が乗っても沈まない写真にも、この世にこんな葉っぱがあるんだ!と驚いたものです。
さて、次週テーマチェンジです。12/14のテーマは「昭和の階段」で行きましょう。昭和の家の階段はなぜか急こう配、学校の階段で転んだ、昭和の団地は5階でもエレベーターがないetc昭和の頃の階段にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています!次週はいつもどおり日曜昼11時半からです。
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=JtbaBkzZB8k
テーマは「昭和の車内販売②」
「社内販売は近所の店よりも高い」と文句を言ってるおじさんの話に山根さん大喜び!
昭和の 約束2
2025年11月30日
今週は「昭和の約束 PART2」で30分。
今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
約束と言えば、「マラソン大会の最後まで一緒に走ろう約束」です。
私は運動が苦手でマラソン大会もいつも最後の方を走っていました。マラソン大会当日は、日頃そんなに仲良くないけど走るのが苦手なクラスメイトと距離が近くなり、「私達どうせ最後の方だから、ゆっくり一緒に走ろうね」と約束します。
でも、大体どちらかが本気になって遅いながらもスパートをかけて、約束通りのゴールにはなりませんでした。だからと言って、約束を破ったとか、破ってごめんと言う事もなかったです。
運動が苦手な私達にとっては、憂鬱な行事が終わった喜びの方が大きかったです。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
約束と聞いて、しょうもない事を思い出しました。
小学生の時、お袋が、クリスマスケーキを買って来て、ケーキの上に乗っていたチョコレートで出来たクリスマスと書かれた小さなボードを兄貴が「今回は自分がもらって食べるから、来年はおまえにやる」と約束しました。
しかし、次の年のケーキに乗っていたボードは、ホワイトチョコで、兄貴は「去年はホワイトチョコじゃなかったから今回はじゃんけんで決めよう」と言ってきたのでブチギレて大喧嘩になりました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和の約束といえば、駅の伝言板を思い出します。当時は移動は今みたいにクルマではなく、列車など公共交通機関が多かったです。
駅の伝言板に約束の時間に相手が来なかったりしたら「先に行く」とか色々書いてありました。当時は携帯電話もなく連絡方法によく利用していたように思います。私は利用したことがなかったですが、駅に行った時はよく読んでいました。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
小学生の頃、同じ団地に住んでいた年下の女の子がいました。その家族が家を建てて、離れた地域に引越す事になりました。何度か手紙でやりとりをしていたのですが、どうしても遊びに行きたくなり「今度は絶対に会おうね!」「さもないと・・・」と脅しのような文章を書いて送りました。すると、相手が恐れたのか、約束どおりその子の家に遊びに行くことができました。今も忘れられない怖い事をしたなぁと反省しています。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
約50年前、私が小学校の高学年の頃の話です。ある日、父親が「親指と人差し指をくっつけた状態で、片手でこの一升瓶を持ち上げたら一万円を上げる」と言いました。父親は「絶対にできない」と思ったのでしょうね。ところがどっこい、私は一升瓶を持ち上げることができました。そして約束通り、一万円を父親からもらいました。
一万円。今でも大金ですが、50年前の一万円。父親はどんな気持ちだったのかと思うと少し複雑です。
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
小学生5年くらいだったか、半ドンの土曜日に「昼から遊ぼう」と、AくんBくんと約束しました。
Aくんちの途中にBくんちがあるんで、Bくんには「僕が迎えに行くから」と言って帰りました。が
近所で親戚付き合いをしていた一回り上のお姉さんが「Aくんちの近くを通るから乗せてってあげる」
と言われ車で送ってもらいました。
そうです、Bくんのことをすっかり忘れていました。Aくんちで「Bくん、遅いね」なんて話してたんですが、翌週、学校に行った時は、特に問題なく遊んでたと思うんだけど、Bくんの気持ちはどうだったんでしょうね。
さて、次週12/7は新しいテーマ「昭和の図鑑」で行きましょう。子供の頃買って貰えなくて友達の家が羨ましかった、花や動物図鑑よりも「ライダー図鑑」ばかり読み込んでいたetc昭和の頃の図鑑にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています!
なお、次週は防府読売マラソン実況中継のため、夕方4時半からの放送です!マラソンもご昭和もどうぞお楽しみください。
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=PpDseHDFnWo
テーマは「昭和の車内販売」
本編入る前のマウとミウのマラソンPRがオモロイですよ!
昭和の 約束
2025年11月23日
今週は「昭和の 歌を歌った」で30分。
今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和41年生まれのリスナーさん≫
テーマを聞いて、高校1年の時に友達と交わした約束を思い出しました。40年以上前のことです。当時、私には仲のいい女友達が3人いました。お弁当をいつも一緒に食べながら、前の日に見たテレビ番組や好きなアイドルの話をしていました。その頃、お菓子のCMで、友達同士がそれぞれ結婚して家族ができてからファミリーデートをするというのがあり、「私らあも絶対、ファミリーデートしようや」と約束したのです。どんな人と結婚して、どんな子供ができるんかねと、盛り上がったものです。
が、いつの間にか疎遠になり、連絡先もわからない今、約束が果たされることはないと思います。でも、あの頃を思い出して、気持ちが少し若返りました。
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昭和の約束で思い出すのは、巨人の星の話の中で、甲子園大会の決勝戦、星飛雄馬が負傷を隠して血染めのボールを投げていた事を、世間には秘密にして欲しいと花形満と交わした約束を、巨人の川上監督にあっさりバラした事です。
昭和の約束は守れないことが常ですが、逆にそれが良い結果になりましたね。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
昭和の約束。あれは、小倉に住んでいた時なので、小学2年から6年の間です。
小倉の井筒屋に母と行きました。
入ったすぐのところに、特別に宝石を展示してあったのです。真珠のネックレスがあって母と一緒に見て私が
「大きくなったら、私が買ってあげるね。」
と、約束したのでした。
それから、50年近くなりますがその約束は果たしておりません。
母はそんな約束は覚えてなかったでのですが、反対に、大人になって、「真珠は冠婚葬祭、なんにでも使えるから」と母からネックレスとイヤリングをかってもらいました。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
20歳の頃、とある店舗の受付をしている年上の知り合いの女性から「お客が来ない日がヒマなので、漫画を貸して」と頼まれました。読んだら返す約束で、当時集めていた「パタリロ」を、50巻くらい貸したのですが。それを持ったまま「寿退社」をしてしまいました。当時は、携帯電話が無い時代ですし、只の知り合いだったので、諦めました。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
小さい頃に当時流行っていたボーリングのおもちゃを買ってくれると騙されて歯医者に連れて行かれました
買ってもらったかどうだかは藪のなかです。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
小学生のとき、「ゼロテスターの人工島のおもちゃを買ってくれたら勉強する」と、母と約束をしました。母は「本当じゃね?」と言って、
僕は「うん、絶対!!」と言って買ってもらいました。
いざ、物を手にしたらそんな約束など知らんぷり。
やはり、勉強より、遊びに夢中でした。
自ら勉強し始めたのは高校生からでした。
さて、次週11/30も「昭和の約束」で行きましょう。〇〇したらおもちゃを買ってもらえるという定番話から、学生時代に約束した結婚話、いつか譲ってくれると言っていた鑑定団に出せそうな絵画etc
昭和の頃の約束にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=V2f86iQNOpk
テーマは「昭和の無駄②」
山根さんはFAXでネタを送ってくれる方に「お金がかかるのに有難う」と毎回感謝されます。
昭和の 歌を歌った2
2025年11月16日
今週は「昭和の 歌を歌った」で30分。
今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和28年生まれのリスナーさん≫
昭和41年6月、私は中学1年の途中で、山口市から広島市に転校しました。1学年11クラスのマンモス校でしたが、びっくりしたのは担任の先生。美術が専門で柔道部の顧問でしたが、午後のホームルームで生徒に歌謡曲を合唱させるのです。各班が当番でB4の藁半紙にガリ版で8曲位を印刷し、1日1曲必ず歌うのです。他のクラスのことはお構いなしで、3年の時も担任でしたが全く変わっていませんでした。私が当番の時は、柳ヶ瀬ブルースやいとしのマックスを選曲して印刷し、大声で歌ったことを覚えています。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
高校の修学旅行は関東方面でした。
ひかり号の旅なのですが、学校から徳山駅までは観光バスでの移動でした。わずか40分位の移動なのに、くじ引きで1曲歌う羽目になりました。
八神純子さんの「ポーラースター」を歌詞本を見ながら歌いました。出発前からテンションがだだ下がりです。
そして、時は流れて2012年7月。
周南市文化会館で行われた八神純子さんのコンサートに行きました。
終演後、握手会に並びました。
「今日の歌の中で、印象に残ってる曲は?」
握手しながら質問されました。
「ポーラースターです。」そう答え、修学旅行の事を話しました。
凄く喜んで頂き、話しが弾みました。
帰り際、ハグもしてもらいました。
あの時、歌って良かったです。
≪50代、女性リスナーさん≫
「昭和の歌を歌った」というと、小学生の頃の"お楽しみ会"です。クラスごとに、席の近い人で班になり、班ごとに、"楽しい発表"をするというものでした。
私達の班は、「勝手にしやがれ」を歌いました。他のメンバーは、親の帽子でカッコ良かったのですが、私は、麦わら帽子を投げました。クラスみんなで、歌って、盛り上がりました。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
3才の時、よく母に連れられ、近所の商店に行き、
一切れ10円のカステラを買ってもらっていました。
その店のおばちゃんが木の台を持って来て、私に「この上で何か歌って」と言ってきました。
私は、当時耳にしていた「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌いました。店のおばちゃんが褒めてくれて、カステラをもう一個くれました。
≪昭和52年生まれのリスナーさん≫
私が小学校3年生の秋に、歌手の立川澄登さんが来校されての特別授業が行われ、そこで「四季の歌」、そして「六甲おろし」を歌ったのを思い出しました。
「四季の歌」は当初から皆で歌う予定に入っていて、音楽の時間だけでなく帰りの回(ホームルーム)の時にも練習していたのですが、「六甲おろし」は、特別授業の中で急遽サプライズ的に歌うことに。
というのも、私が小学校3年生の年は1985年。
そう、阪神タイガースが日本一になったシーズン。テレビ等で耳にしてはいましたが、いざ歌うとなっても、歌詞もよく分かりません。
それでも、一番の歌詞がかかれたプリントが配られ、立川さんがあの重厚感のある声でのお手本と、優しくユーモラスな説明でレクチャーしてくれたお陰で、ぶっつけ本番ながらも楽しく歌う事ができたのを覚えています。
≪昭和37年生まれのリスナーさん≫
中学3年の時、県内の宿泊訓練に行くバスの中の出来事です。1時間もかからない距離の中、なぜかバスガイドさんが付いてくれていまして、短時間だから短い時間で盛り上がる事をやろうとされていて、当時中学生で流行っていた「伊東四朗の電線マン音頭をみんなで歌いましょう!」と言われました。
しかしガイドさんの気持ちとはウラハラ。うちの中学は県内でもトップの進学校でして、電線マンを誰も知らないので静かになってしまい、ガイドさんは困っていました。ただ、僕だけは知っていたので最後はガイドさんと僕の2人だけで歌いました。
全然受けなかったけど、目的地に到着してバスから降りる僕に小声で「ありがとうね,」と言われたことを思い出しました。
さて、次週11/23は新テーマ「昭和の約束」で行きましょう。友達と遊ぶ約束をしたまますっぽかしてしまった、昭和の頃交わした約束をまだ実現できていない、デートの約束をしたがお相手が来なかったetc昭和の頃の約束にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=u6k_hVWAmN8
テーマは「昭和の無駄」
山根さんが昭和の頃からずっと思っている無駄。「ファックスを送ったから届いているか見てくれますかという電話」中には、内容まで電話で伝えてくるヤツもいるそうな。。。
昭和の 歌を歌った
2025年11月09日
今週は「昭和の 歌を歌った」で30分。
今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
40年くらい前に町内会の夏祭りでカラオケ大会がありました。主人と出場することになり、私はその頃に流行った『もしかしてPart2』を歌いたかったのですが、主人は「よーわからん」というので仕方なく『銀座の恋の物語』を歌いました。
当日、主人はリズムが合わずどんどん遅くなって行くので仕方なく途中から背中をトントンしてリズムを合わせようとしたのですが無駄でした。それ以来、主人とは人前でデュエットを歌うことはありません。
≪昭和33年生まれのリスナーさん≫
昭和のバス旅行では、行く先々ではバスガイドさんがご当地ソングを歌ってくれました。そのうちにマイクを渡し、前側に座っている乗客も歌わされます。マイクを差し込む穴はバスの中央にもついているため、後の方に座っていても逃げることはできず、半ば強制的に歌わされます。
町内会で年一回の日帰り旅行があった時、私も当時流行っていた「ドリフのズンドコ節」を歌ったことを覚えています。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
「昭和の 歌を歌った」で思い出したのは、中学の修学旅行のバスの中です。
修学旅行前に修学旅行実行委員会から
「バスの中で歌を歌う時間を設けたいと思います。歌う曲のカセットテープを委員会の方で準備するので、3年生全員からリクエストを募ります。」との発信がありました。
ところが、ふざけた男子達の組織票が効いてしまい
・1位:(北島三郎)与作
・2位:(渥美二郎)夢追い酒
・3位:(円広志)夢想花 の結果に。
まさか修学旅行のバスの中で何度も演歌を聞くことになるとは思いませんでした。
≪男性リスナーさん≫
社会人野球の応援で地方遠征に行き、ホテルでのカラオケ大会でジャンル縛りをしようとなりアニメを歌うことになりました。
私は水島新司さんが好きなので気持ち良くがんばれドカベンを歌いました。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
高校入学して、バレー部の新入部員の自己紹介の時に「歌を歌え」と言われたのを思い出しました。歌った曲は、「帰ってこいよ」でした。体育館で先輩達が見守る中、ステージで歌いましたよ。
それから、だんなと付き合うきっかけは、「今夜は離さない」を、デュエットしたのがきっかけでした。
ビアガーデンにいった後、スナックで歌いました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和57年、高校卒業前に、先生が、
“お前ら、社会人になって会社で飲みに行って余興の一つでもやれ~と言われて困らんように。”
という事で、授業の2時間を利用して、音楽室で、一人ずつ歌を歌うことになりました。
出席番号順から、私は2番目。歌う歌は、ちょうどラジオで流れていた“阿呆鳥(あほうどり)”というグループの『物語』を歌ったのですが、先生曰く、
“よ~知らんけど、まぁ~ええわ。”と微妙に言われたことを思い出します。
友達たちは、“時には娼婦のように”とか“後ろから前からどうぞ”とか、派手にやりすぎて、大騒ぎになり、隣の教室の先生からクレームが入ったことは言うまでもありません。“社会人枠”で採用された先生、おもしろかったで~す。
さて、次週11/16も「昭和の歌を歌った」で行きましょう。修学旅行で遠足で、親戚の集まりで、自治会の宴会で、友人の披露宴でetc昭和の頃に歌った思い出・エピソードをお待ちしております!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=rESA4unohYg
テーマは「昭和の透明②」
山根さんが透明なプラスチックケース下敷きに入れていたのはスティーブ・マックイーンだったそうな。
昭和の車内販売 PART2
2025年11月02日
今週は「昭和の車内販売 PART2」で30分。
今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
我が家の階段の壁には、家族が旅行に行った時に買ってきたペナントが貼ってあります。
そのきっかけになった一番最初のペナントは、関門大橋のペナントです。
日付が書いてありますが、買ったのは昭和52年の3月21日。当時住んでいた静岡県から、母親の実家のある山口県へ帰省する時、大阪から新門司港まで乗ったフェリーの船内で買ったペナントです。
昔のペナントは、日付を書く欄が最初から用意されてました。以来、行く所、行く所でペナントを買いました〜。復活されたら面白いと思います、ペナント。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和56年、高校2年、修学旅行東京行の新幹線で、“初”の車内販売の売り子のお姉さんに遭遇しました。岡山と神戸付近では、通路の出入り口で特産品の紹介をされ、その車両に陣取っていた私たちに、笑顔で“買ってくださいねぇ!”(多分ご愛敬)
と言われ何人か殺到したり、ずうずうしく“彼氏いるの?”とか話しかけたり、そこには私を含め“昭和の熱き男子高校生”がおりました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
私が五歳の頃、母と一緒に夜行列車に乗って旅をしました。買って貰ったお茶が陶器の器に入っていました。六角形か八角形?で茶色と灰色の二段模様で針金の取っ手が付いていました。
≪昭和43年のリスナーさん≫
初めての新幹線の乗車は、パンダの「カンカンとらんらん」を見に「上野動物園」に行く時でした。行きか帰りかは忘れましたが「食堂車」からの良い香りを覚えています。親に食堂車での食事をお願いしましたが「お値段が高い」のでダメでした。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
子供の頃にタコ坪の様な駅弁を食べた記憶が有ります。でも、大抵が「次に売り子の台車が来たら、買ってあげる」ではぐらかされていました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
「昭和の車内販売」で思い出すのは昭和末期に行った海外旅行の飛行機に置いてあった通販雑誌です。高い天井についている電球を取り替えるための先端に電球を掴む部分がついている高所電球回し棒や、巨大なクモを吸い込むために掃除機につけるアタッチメント、
やっぱり海外はスケールが違うなぁと感じたことを覚えています。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
学生の時に旅行で近鉄特急に乗りました。貧乏旅行だったけど、寮の門限を守る為に仕方なく利用しました。車内販売の人がやって来たと思ってたら、一人ずつにおしぼりを手渡してくれました。
あの日から今日まで列車の旅でおしぼりのサービスを受けた経験はありません。
さて、次週11/9のテーマは「昭和の歌を歌った」で行きましょう。お遊戯会で、カラオケで、村祭りで、観光バスでマイクが回ってきてetc昭和の頃に歌った思い出・エピソードをお待ちしております!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=2kpzVWGWnUE
テーマは「昭和の透明」
山根さんが話題に出した「ビックリハウス」の写真をブログに載せてます!
昭和の車内販売
2025年10月26日
今週は「昭和の車内販売」で30分。
今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
母方の爺さんは、とても旅行好きで父親が早くに亡くなった自分達を不憫に思っていたんでしょう、年に数度、兄と2人電車で旅行に連れて行ってくれてました。
いつも、爺さんは列車に乗るとすぐにワンカップの日本酒とちくわを買って一杯ひっかけ、自分達にはゆで卵と冷凍みかんを買ってくれてました。
旅の思い出は、行った先の出来事より、車内販売で買ってもらって食べた、卵とみかんの方が残ってますね。
≪今年29才のリスナーさん≫
小学校高学年から中学生の頃に、宇部から熊本市に居る母の妹の所へ夏休みに一人で列車に乗って行っていました。
一度、隣に座ったおじさんが車内販売でサンドイッチを買ってくれました。当時、住んでいた辺りにサンドイッチを売っているお店なんてありませんでした。紙の箱にキッチリ入っていました。
≪65才のリスナーさん≫
昭和51年頃だったと思いますが、新幹線での下りの弁当販売は、あの帝国ホテルが作ってた様でした。
東京から徳山まで従兄弟と帰り、社内販売の帝国ホテルの弁当を買いました。お茶は白っぽいプラスチック容器に入った、熱いお茶でした。
その少しお高い帝国ホテルの弁当をそれぞれ2人で食べました。とても美味しかった思い出があります。特にフルーツのネーブルは、とても甘くて美味かった。従兄弟は、何を間違ったか、そのネーブルを床に落としてしまいました。僕が「ネーブルが一番美味しかった」と言うと、従兄弟は、とても悔しがってました。大学生の頃の思い出です。
≪64才のリスナーさん≫
自分が小学校低学年の頃、両親の故郷が長野だったので、夏休みに母と姉と3人で長野に行った時、まだ新幹線が東京まで走っていなかったので、宇部から名古屋まで寝台列車を使い、名古屋経由で長野に行きました。寝台列車では車内販売は無く、翌日の中央線の特急電車では車内販売があったと思いますが、母は旅費の節約のため、前日からおにぎりをにぎり、水筒にお茶を入れ持参し、私たちに食べさせました。自分は内心、車内販売を羨ましく見てました。冷凍ミカンがとても気になりました。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
子供の頃にタコ坪の様な駅弁を食べた記憶が有ります。でも、大抵が「次に売り子の台車が来たら、買ってあげる」ではぐらかされていました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の車内販売で思い出すのは、高校の修学旅行ではじめて乗った新幹線の車内販売のお姉さんを思い出します。
ドアが開くとまず頭を下げて一礼。その後は「コーヒーにサンドイッチ、アイスクリームにお弁当はいかがでしょうか」と綺麗なお姉さんが台車を押してやってくる。注文の度に止まって対応される姿に見とれてました。なけなしの手持ちの小遣いから、思わずアイスクリームを買ってしまいました。「ありがとうございます。」と明るい笑顔に胸がどきどきしたのを覚えてます。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
中学の修学旅行は 兵庫・広島・山口方面に新幹線で行きました。2両ほど貸切で女子校だったため元気な女子がぎっしり。
車内販売のお兄さん、お姉さんがとっても若くて、ちょっとカッコイイ人もいて、通る度にちょっかい出して盛り上がって、みんなで一緒に撮った写真が 良い思い出です。全然買わないのに引き止めてばかりでごめんなさい。
さて、次週11/2のテーマも「昭和の車内販売」で行きましょう。我慢した・買ってもらった思い出、同じ商品でも欲しくなる、定番の硬いアイスクリームetc次週もお待ちしております!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=_t7SdnWd92s
テーマは「昭和の迷った買い物②」
レーザーディスクを見て「わかんな~い」と言う平成生まれの野口アナをご覧ください。
昭和の無駄 PART2
2025年10月19日
今週は「昭和の無駄 PART2」で30分。
今日も、ご昭和リスナーの皆様から多くのネタが寄せられました。
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昭和40年代初頭、カラーテレビが裕福な家庭から、じわじわと普及していました。しかし、一般家庭でカラーテレビはまだまだ高嶺の花で、カラーテレビは買えないけど「アンテナだけカラーテレビ用のアンテナを取付ける家」がありました。近所に対する完全な見栄ですが、白黒テレビにカラーテレビ用のアンテナを付けても特に効果は無いと思います。因みに我が家は、昭和42年頃に16インチのサンヨーサンカラーを16万で買ったと聞いてます。
≪今年77才のリスナーさん≫
中学生の頃、帰りに店によって、かき氷・竹輪等を食べる。(通い帳)に記入して帰る。数日後、親がまとめて支払う。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
小学6年生の時、クラスに気になる女の子がいましたが、当然話かける事も出来ず、心の中で「いいなぁー」と思っているだけでした。
ですが、その子が席替えで隣になって、いつも給食で牛乳を残すので、思いきって「飲めないんなら、ワシが飲んじゃろうか?」と言ったら「いいん?飲んでくれる」と言ってくれました。それからずっと、小学生活が終わるまでその子の牛乳を飲んでました、でも、それだけで、期待する様な出来事は何一つ起こること無く、無駄な努力でした。さらに、他の牛乳が苦手な女子3名からも頼まれて、毎日5本の牛乳を飲んでました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
「昭和の無駄」で思い出すのは、『缶切りのコルク抜き』です。そう、中央に畳まれているネジネジした部分です。
家庭によると思いますが、うちはワインなど嗜む家庭ではなく全く使うことはありませんでした。
平成になって、専用のコルクオープナーを使いましたが、専用のものでも上手く回せなかったです。
缶切りにおまけのように付いたものではきっと失敗ばかりだったと想像します。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の無駄(な買い物)で思い出したのは、
ガンプラの抱き合わせ商法で買わされたプラモデルです。
欲しくもない「モビルスーツみたいなモノ」のプラモデルを何個買わされたことか。
≪昭和27年生まれのリスナーさん≫
バイクや車の「暖機」。
キャブレターのチョークを引いてエンジンを掛け、バイクはシリンダーヘッドが少し暖まったら、車は水温計の針が動いたらチョークを戻し・・・と今考えるとガソリンを無駄にしていたと思います。
当時は、それ前提のエンジン設計なので仕方無いかな。
でも、私が最初の車を持った昭和四十七年の手取りが二万五千円位で、レギュラーガソリンがリッター四十五円位だったので、決して安くは有りませんでした。手取りが二十五万円で、リッター四百五十円だと考えると高いでしょ。
さて、次週10/26のテーマは「昭和の車内販売」で行きましょう。特急列車の中、フェリーの中、観光バスの中…、飲食・お土産、欲しいものが多かったなぁ。会社の社販じゃないですよ~。
次週もお待ちしております!
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テーマは「昭和の迷った買い物」
山根さんのおばあさんはフエキのりの代わりにお米で貼り付けていたとか。