ご昭和ください ブログ
昭和の 一生の思い出
2025年06月15日
今週は「昭和の一生の思い出」で30分。
先週、番組のラストで、高橋少年にとっての一生の思い出は“8時だョ!全員集合の公開収録”に行った事と話をしましたら、リスナーの皆さんの中にもいらっしゃったようで…
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和52年。下関体育館に、「ドリフターズ」がやって来たんです。生で見る「8時だよ!全員集合」にドキドキ・ワクワクしました。当時、志村けんさんは、まだ見習いで、前座にチョロっと出て来られました。会場の入り口には、ドリフターズのメンバーが乗って来られたと思われる、アメ車の「サンダーバード」が止まっていました。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
私が小5の時のお正月、当時、静岡県在住でしたが、バスツアーで東京の新宿コマ劇場に、ドリフターズの正月公演を見に行きました。
きっと、席は後ろの方だろうと、オペラグラスを買いました。が、はじっこの方でしたが席は何と3列目!うれしかったですねえ。はじっこの方なので、立ち位置的に私たちの前は、だいたい高木ブーさんでした(笑)。
水芸をするブーさんの姿、はっきり覚えてます。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
「昭和の一生の思い出」は、高校2年の修学旅行で行った大阪万博です。最初に目に飛び込んできた太陽の塔は、今だにハッキリと目に焼き付いています。
アメリカ館やソ連館には入れませんでしたが会場をグルリ廻って世界中を観たような気分になりました。それまで外国の方を見たことがほとんど無かったし、テレビのような画面に短い棒で触れると画面が変わってビックリしたのは、今思えばタッチパネルだったのでしょうか?
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
田舎の山奥育ちの私。昭和40年代の土曜日・半ドンで学校から帰ってお昼は、祖母が作るラーメンでした。キンちゃんラーメンが定番。たまに出前一丁が贅沢でした。
そんな中、中学に入学してはじめて、母にラーメン店に連れて行ってもらいました。初めて見るチャーシューやメンマに感動しました。汁も残さずに全部食べました。本当に上手かったことが今でも忘れられません。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和57年の大学受験。国公立の入試は、当時は前期入試、後期入試なんてのはなく、受験できる学校はひとつだけでした。
共通一次を経て、京都で二日間の2次試験を受けました。
もちろん、インターネットなどもありませんから、合格発表はわざわざ受験校まで見に行くか、合格通知が送られてくるのを待つことになります。
そこで、大抵の受験会場では、大学の学生が代わりに合格発表をみてくれて電報を打って知らせてくれるという有料サービスがありました。学生がやることだから信頼性がイマイチということもあって、私は2つの団体に依頼したのですが、合格発表の日、2通の「サクラサク」の電報を受け取ったときはうれしかったです。一生の思い出になっています。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
自分は二十歳ぐらいの時に和太鼓の「回天太鼓」の演奏チームに入っていました。
もともと音感が全く無い自分でしたが、周りのみんながサポートしてくれて平太鼓のパートを叩かせてもらっていました。
ある時、東京で催し物があり、その一つの演目に自分達が出場する事になりました。
当日、3000人以上のお客さんの前で叩かせてもらい、最後演奏がバシッと決まった瞬間の何とも言えない気持ちと、お客さんからの大歓声は今でも忘れられない思い出です。
≪昭和30年生まれのリスナーさん≫
「昭和の一生の思い出」というと、船での世界一周です。商船高専では、卒業前の1年間、船での航海実習があります。最初の半年間は、帆船・日本丸でハワイに行き、後の半年間は、機船・銀河丸での世界一周でした。
東京を出港して太平洋を渡り、ロスアンゼルス、パナマ運河入り口のバルボア、大西洋を渡り、ポルトガル、リスボン、地中海に入り、ギリシャ、ピレウス(アテネの近く)、スエズ運河の入り口、ポートサイド、インド洋を通ってシンガポールの各港に寄港して、東京に帰ってくる、80日間の世界一周でした。
寄港した港では、4日間停泊し、観光したりお土産を買ったりできました。中でも、一番の思い出は、アテネのパルテノン神殿に行ったことでした。
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
小学生の頃、コント55号の欽ちゃんが好きで、雑誌に書いてあった住所に年賀状を出してました。
その欽ちゃんがやっていたラジオが「欽ちゃんのドーンと行ってみよう」。番組にネタを考えて送っていました。ほとんど読まれることはなく、最後にボツはがきの名前を読んでくれる時に、確か3回くらい。また、川柳のようなネタでの「今日の一言」に2回読まれました。そして、一番のコーナーの「あぁ勘違い」で1枚だけど読まれたんです。しかも、欽ドン賞をもらいました。普段は五千円なんですが、その日は二人が欽ドン賞だったので三千円を賞品として貰いました。欽ちゃんが僕のつたないネタを読んで笑ってくれた「一生の思い出」です。
さて、次週6/22も「昭和の一生の思い出」で行きましょう。高橋少年はもうひとつ。中1の時の夏に富士山に登って山頂で1泊、翌朝ご来光が出来たことですね~。次週も「昭和の一生の思い出」お待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=bhcVcclhji0
テーマは「昭和の録音 PART2」
山根さんが見て大笑いしたという、私高橋のデビューしたての頃のVTRが挟んであります!
昭和の 私の帽子PART2
2025年06月08日
今週は「昭和の 私の帽子PART2」で30分。
松崎しげるさんの♪黄色い麦藁帽子をBGMに皆さんのエピソードをご紹介しました。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
アルバムに残っている卒業式後の写真を見ると、被っているのは阪神タイガースの帽子。友達は巨人や広島ファンが多かったです。私は小学校二年生の時に入院したことがありまして、そこの小児科の病棟は何故か阪神ファンばかりで、つられて阪神ファンになった記憶があります。が、それ以降ずっーとタイガース一筋で今日に至っています。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
鹿野小学校6年の修学旅行は、下関、北九州方面へ、1泊2日のバス旅行。学生帽は、夏季用の白キャップでした。
下関の鯨館内を見学したあと記念写真を撮りました。なぜか、一番右にいる友達のイエマン(あだ名)だけ、阪神タイガースの帽子でした。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
私は頭のサイズが人より小さいようで、髪の毛が薄くなった30代からはスキンヘッドにしています。市販のサイズが合わないので母にいつも手直しして貰っています。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
小学生の時のクリスマス子供会の催し物。
町内で有名な“自称マジシャン”のおじいさんがいて、マントにシルクハットを被り、まるで怪傑ゾロみたいな格好でステージに立ちました。
たぶん、そのおじいさんは、被っていたシルクハットから、何かしらかの液体を出したかったのでしょう。シルクハットの中には何も無い事をアピールするため、シルクハットを取ってみんなに中を見せようとした瞬間、シルクハットの中から“青色の液体”がドボドボと垂れ落ちてしまいました。
多分、仕込んでいたネタが、どこか破れて出て来たのでしょう。印象に残るクリスマス会となりました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和52年に行った新婚旅行は沖縄でした。途中、与論島に行くのに船にも乗りました。何組かの新婚さんが一緒で同じ部屋で過ごしたんですが、その中に大きな帽子が潰れないように入れる為に厚紙で出来た“円柱形の箱”を持ち歩いている人が居ました。軽いとはいえ、かなりの荷物です。私はごく普通の畳める帽子でした。
≪昭和51年生まれのリスナーさん≫
小学1年生の頃、伯父に買ってもらった帽子がお気に入りでした。
それは、テレビアニメ「Dr.スランプアラレちゃん」の帽子です。
帽子の左右に白い羽がついていて、帽子のつばは紺色、それ以外は赤色でした。
この帽子を被り、「キーーーーーーん!」と言いながら両手を広げてダッシュしてアラレちゃんの真似をしていました。楽しかったなー!
さて、次週6/15は「昭和の一生の思い出」で行きましょう。待望の彼女が出来た、合格した、海外に行った等いろいろあると思いますが、高橋少年はやっぱり“8時だョ!全員集合の公開収録”に行けたことですね~。皆さんからも、昭和の頃の一生の思い出・エピソードをお待ちしています!
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https://www.youtube.com/watch?v=rmlDriHGDII
テーマは「昭和の録音」
山根さんは幼稚園卒園時に園長先生の部屋にあるテープレコーダーに「大きくなったら」というテーマで吹き込んだんですって。
昭和の 私の帽子
2025年06月01日
今週は「昭和の私の帽子」で30分。
ご自身の、また、ご家族の帽子の思い出がたくさん送られてきました。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
初めておしゃれな帽子をかぶったのは、たぶん1歳の時だそうです。テレビで、ピンキーとキラーズが被っていた帽子をじっと見ていたらしく、母がそれ風のヤツを買ってきたみたいです。外はもちろん、家の中でも、かぶりたがって随分困らせたようです。山高帽子と呼ばれていたっぽいですね。
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
子供の頃は帽子と言えば、YGマーク。そうです、山口では巨人軍のマークが殆ど。たまに阪神のマークや広島のマークを見かけるくらい。あと南海もたまには見かける事も有りました。大半の人は巨人軍の帽子でしたが、私は、阪神の帽子を被っていました。
≪65才のリスナーさん≫
私は子供の頃から、人一倍、頭が大きく、幼稚園の頃、先生と同じ大きさの56cの帽子を被っていました。重量分布の慣性モーメントのバランスが悪くのか、小さい頃は、良く転んだものです。
高校生の時は、既製品の学生帽が合わず、特注の帽子を被りました。単車のフルフェイスのヘルメットが、メーカーによっては、サイズの合うモノが違い、探すのに一苦労していました。
≪昭和48年生まれのリスナーさん≫
私が幼稚園の頃、沢田研二さんの「勝手にしやがれ」という曲が大ヒットしていましたね。
歌番組で沢田研二さんが歌う途中で帽子を放り投げる姿が印象的だったのを覚えています。
私も真似をしようと思ったんですけど、あいにく私の家にはエレガントな帽子がなく、仕方なくチロリアンハットみたいな幼稚園の通園帽子をかぶって、 テレビの向こうの沢田研二さんと一緒に帽子を脱いで放りなげていました。
≪昭和46年生まれのリスナーさん≫
昭和10年生まれの寡黙な父とは、幼い頃から遊んでもらった事や会話した記憶は殆ど無いんですが…私が幼稚園に入園した時に、何故なのか、その寡黙な父がひょうけた表情で私の幼稚園の帽子を被り、バックを肩にかけて自宅で記念撮影をした事があり、子供ながらにビックリした出来事を、今回のテーマで思い出しました。
≪昭和37年生まれのリスナーさん≫
昭和47年小学4年生の頃のこと。当時、男子で普通の野球帽に球団のマークを取り付けるのが流行って、僕はカープ(当時はH)を付けたかったけど、どこにも売っていなくて、大型スーパーに巨人と西鉄だけが売っていました。
当時は、西鉄はNとL混合の複雑なマークですが、巨人が嫌なので西鉄を買って母に縫ってくれるように依頼しました。すると、母は、反対に縫ってしまったので「これ!反対じゃあね!」と言ったら、反対の意味が理解出来てない様で、「こっちの方がカッコ良いわーねー!」と言われました。
さて、次週6/8も「昭和の私の帽子」で行きましょう。贔屓の球団の野球帽、おしゃれな家族の帽子、体育の赤白帽子、テンガロン、カウボーイetc皆さんの帽子の思い出・メッセージ・写真をお待ちしております!
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https://www.youtube.com/watch?v=VP-psvcQ9EM
テーマは「昭和の雑魚寝」
山根さんが好きな「マイクロ」って言葉が出てきて大盛り上がり~。
昭和の お見送り
2025年05月25日
今週は「昭和のお見送り」で30分。
いろんなパターンのお見送りの思い出が寄せられました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
思い出すのは船が出る際の見送りで投げる紙テープです。映画やテレビで見る光景を実際にやりたくて、祖母が名古屋港から苫小牧に行くフェリーに乗る時に投げました。
しっかりテープが繋がった状態から切れるまでの記憶はありませんが、一生に一度の思い出です。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
自分は子供の頃、広島県の瀬戸内海の島で暮らしていました。当然、橋も架かってなく、対岸の町へ出かけるときは、フェリーや高速船を使います。
小学校の同級生が転校する時、クラスのみんなで桟橋へ見送りに行くのですが、その時に「いろんな色の紙テープ」を渡して、みんなで引っ張ります。
高速船が走り出すと、紙テープが引っ張られ、あっ!いう間になくなり、その後は、両手で思いっきり手を振りました。
すると、出港した高速船がこっちへ戻ってきて、一周して去って行きました。後から知ったのですが、特別料金を払うと一周してくれたそうです。
≪昭和20年生まれのリスナーさん≫
私が勤務先の横浜に戻るため新幹線ホームを歩いていた時のこと。ふと前を見ると「妙齢のお嬢様」が乗車口から2メートルぐらい手前で乗車口の方をじっと見ていました。そこを横切る際にちらっと車内を見てみると、そこには「白い制服姿の青年」が立っていました。そのまま1両先に進んだところで、後ろを振り向いて見ると、そのお嬢様から数メートルほど離れたところには御婦人が、お母様でしょうね。この一瞬の光景に映画の撮影?かと疑ったものでした。今でも、その時の「肩まで伸びた髪のお嬢様の立ち姿」が思い出されます。
≪昭和37年生まれのリスナーさん≫
昭和62年、広島の友人の結婚式に出席して、山口に帰る際に広島駅での見送りに付いて行きました。僕はただのお見送りでしたが、新郎の職場関係の人達が大盛り上がりで、そのうちの5人が、日曜の夕方、ごったがえしているところを、長さ10メートル近くの横断幕を持って新幹線の出発と同時に走って追いかけていました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和52年11月に結婚式を挙げました。昭和の新婚旅行のお決まりで、夫は新山口駅のホームで見送りに来た友人達に胴上げをされました。夫は当時、体重が50キロ無かったので、かなり上まで上がっていました。
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
上京する日の夕方、寝台特急「あさかぜ」で徳山駅から出発することになっていました。
その日の朝、当時、山口にあった運転免許試験場に行って筆記試験を受けていました。
無事、合格して免許証を受け取りましたが、家に帰っていると乗り遅れてしまうため、直接、徳山駅に行きました。荷物は親に頼んで持ってきてもらいました。見送りには、家族と友達が来ました。
列車が動き始めると、友達が走って追いかけて来るというドラマの様なシーンを体験しました。
≪昭和31年生まれのリスナーさん≫
結婚式をあげた後の見送りは、「車の後ろに空き缶を取り付けて走らせる」というあのワンシーン。
あれが好きでした。
5才上の姉が嫁いだ時も兄達と一緒に空き缶を取りつけました。私が二十歳の時だから、昭和51年頃ですかね?
そこいらを一周して帰ってきたような気がします
さて、次週6/1のテーマは「昭和の私の帽子」で行きましょう。今日のトークで山根さんが「新婚旅行での新婦はみなお洒落な帽子を被っていた、そうじゃない!?」と言い出したもので、このテーマになりました。男児・女児、大人になってから、お気に入りの帽子の思い出、メッセージをお待ちしております!
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https://www.youtube.com/watch?v=C2ama8hUC4I
テーマは「昭和の突然 PART2」
なんと、テーマのように、突然、山根さんが欠席!渡辺三千彦さんが代打した回です。
昭和の 海外テレビドラマPART2
2025年05月18日
今週は「昭和の海外テレビドラマPART2」で30分。
今回もドラマのオープニングテーマもかけながら、皆さんの思い出をご紹介しました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
私が思い出すのは、「バイオニッック・ジェミー」ですね。いつもオープニングに流れる映像が、当時の科学少年の心をくすぐりました。ジェミーが能力を使うときの「むにゅにゅにゅにゅにゅにゅ」という効果音が、何ともそれらしくて、かっこよかったですね。
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
タイトルで、〇〇野郎ってのがありましたよね。
「冒険野郎マクガイバー」に「特効野郎Aチーム」、そして「白バイ野郎ジョン&パンチ」。
その辺にあるものを駆使して敵と戦うマクガイバーも、個性的な仲間が集まったAチームも面白かったんですが、カリフォルニアハイウェイパトロール CHiPsの活躍を描いたジョン&パンチは格好よかったですね。
≪下関のリスナーさん≫
小学校高学年だったと思います。「0011ナポレオンソロ」と言う、スパイドラマを覚えています。分厚い本をくりぬいた中から拳銃を取り出すシーンを見て、本棚から不要な本を探して、苦労してくりぬきオモチャの拳銃を隠していました。
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
私が物心ついた頃はテレビもありましたが、チャンネル権は常に父でしたので時代劇、大河ドラマは絶対で海外ドラマは西部劇ものを父は好んでみていました。
特に気に入っていたのが『ローハイド』で兄たちも熱中して毎週欠かさずみていました。
「ローレンローレンローレン」と主題歌が流れると何千頭もいる牛の中にカウボーイの男性たちが馬に乗って幌馬車も引かれていたのが印象に残っています。確かまだ白黒の頃でした。
≪昭和46年生まれのリスナーさん≫
中学生だった頃にハマった海外テレビドラマが「大草原の小さな家」。頼り甲斐のある優しい父さんと美しく優しい母さんと三姉妹家族の物語。絵に描いたような理想の家族像に中学生ながら憧れたモンです。
さて、次週5/25のテーマは「昭和の見送り」で行きましょう。山根さんは子供の頃、駅のホームで新婚さんを親戚と一緒にバンザーイと見送った事があるとか。フェリーの紙テープでのお見送り、甲子園に出発する選手を見送りetc昭和の頃の様々な見送りの思い出・メッセージをお待ちしております。
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=Y2FuZdUV2Z4
テーマは「昭和の突然」
オープニングトークで突然、渡辺三千彦さんが出てます、お楽しみに!
昭和の 海外テレビドラマ
2025年05月11日
今週は「昭和の海外テレビドラマ」で30分。
ドラマのオープニングテーマもかけながら、皆さんの思い出をご紹介しました。
≪昭和27年生まれのリスナー≫
自分が一番好きだったのは「タイムトンネル」。
日曜の夕方に放送されていたと記憶しています。
タイムマシンじゃなく、タイムトンネルってタイトルもいいですね。
≪昭和37年生まれのリスナー≫
深夜番組でやっていた「チャーリーズエンジェル」。
ジャクリーン・スミス、ケイト・ジャクソン、ファラフォーセット・メジャースの3人が事件解決のためアクションありの奮闘する番組でした。
なかでも“ライオンの髪”ファラフォーセットが大好きで、同じ頃に映画出演していたポスターが欲しくて山口市の映画館の公開最終日に1枚300円のポスターを3枚、買った思い出があります。
≪昭和34年生まれのリスナー≫
昭和の海外テレビドラマ、挙げればキリがないですが、私の記憶で古いものは、小学校低学年の頃、父が好きで一緒に見ていた「逃亡者」です。
ジェラード警部の執拗な追跡を、毎回、紙一重でかいくぐり、ドキドキしていました。
≪昭和35年生まれのリスナー≫
ひとつ挙げるとすれば「謎の円盤UFO」です。
「1980年すでに人類は・・」で始まるオープニングは格好良かったです。
確か土曜日8時からの放送で、“全員集合”を見ていた僕に、2つ年上の従兄弟がこの番組を教えてくれ、オープニングは謎の円盤、その後にドリフのコント、後半は謎の円盤を見ていました。
≪昭和28年生まれのリスナー≫
昭和の海外テレビドラマと言えば、第一に思い出すのが「コンバット」です。ヘンリー少尉、サンダース軍曹、ケーリ、カービー、リトルジョン等が懐かしく、「チェックメイト・キングツー」という無線のコールを真似したり、縦笛でコンバットのテーマを小学校の休み時間に吹いたりして遊んでいました。
昭和の海外テレビドラマといえば、「名犬リンチンチン」や「名犬ラッシー」のような犬が主役のドラマを思い出します。また、「ルーシー・ショー」などのホームドラマを見て、アメリカの家の大きさはもちろんですが、家具や電化製品の大きさにビックリしていた記憶があります。
さて、次週5/18も「昭和の海外テレビドラマ」で行きましょう。やはり世代的に昭和30年代生まれの方のメッセージが多めのようですが、その分、熱いネタが多いですね~。今回、山根さんが言っていた「ボナンザ」「ライフルマン」「ルーツ」などの思い出もお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=wlF3qFCLWI4
テーマは「昭和のクリアランス」
年度末の放送ということで、時間などの都合で読めなかったメッセージをあれこれジャンル問わずにご紹介しています!
昭和の 録音PART2
2025年05月04日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の録音 PART2」で30分。
今週も、多くのご昭和リスナーからネタが届きました。
≪昭和63年生まれリスナー≫
父親が忘年会の景品かなんかで、白黒テレビが見られてラジオも聞けて録音ができるものを持って帰って来て、私にくれました。当時は漫才ブームで、ツービートやB&Bやコント赤信号、さんまさんなんかが出ていて、その番組をカセットに録音して車で聞いていました。
≪昭和28年生まれリスナー≫
昭和51年に就職し、2年後に「中間監督者昇任試験」を受験し合格したので、広島市での研修に入りました。教官は講義で熱弁をふるい板書が殆どありませんでした。そこで、私は、第一産業にポケットテープレコーダーを買いに行き、講義内容を録音し講義中は聴取に集中し、夜、寮でテープを聞きながらノートをまとめました。その甲斐あって入所はビリ位だったのが、やや上位で修了出来たみたいでした。
≪昭和42年生まれリスナー≫
小学6年生くらいの時にかなり厳しい学習塾に通っていました。
ある日の英語の課題が「1単語、100回発音してカセットテープに録音して提出」というものでした。
私は自分の声を録音するのが恥ずかしかったので提出しませんでした。
後で、先生にはかなり怒られましたが、悪いのはもちろん私です。頑張って100回発音して、英単語たくさん覚えていたらもっと賢くなっていたのでしょうかね。
≪昭和49年生まれリスナー≫
昭和59年、小学校4年生の時のこと。給食の時間に流れる「クラス紹介」を収録することになり、児童各自の自己紹介を、ラジカセで収録していきました。僕はラジカセの前で叫ぶように大きな声を張り上げて自己紹介を吹き込みました。数日後、僕たちの学級の「クラス紹介」が放送されて、いよいよ僕の自己紹介アピールが流れ、その叫んだ大声の自己紹介アピールは、実際に聴いてみると声が大きすぎて一体何を言っているのかハッキリと聴き取れず、それを聴いていたクラス児童全員からは大笑いされて、恥ずかしかった思い出があります。
さて、次週5/11は「昭和の海外テレビドラマ」で行きましょう。山根さんの記憶の引き出しが全開になるでしょう。高橋少年がパッと思いつくのは「奥様は魔女」。アメリカの家庭の豪華な暮らしが見られたなぁ。山根さん曰く、「いろいろ調べなくても良いです、皆さんの思い出をお寄せください!」
昭和の海外テレビドマラにまつわる思い出・メッセージをお待ちしております。
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=ZOr3Tifvj6Q
テーマは「昭和の背番号②」
連休中、過去の動画も含め、芋づる式にご覧ください!
昭和の 録音
2025年04月27日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の録音」で30分。
小学校1年生の時のこと。担任の先生がちょっとしたトランクくらいの大きさの物を教壇に置きました。生まれて初めて見るテープレコーダーでした。家にはやっとテレビがやって来た頃です。録音機なんて家にはありません。先生はみんなの声を一人ずつ録音して聞かせてくれました。自分の声を自分で聴く!それはそれは衝撃的な体験でした。
私が四歳の頃のカセットテープが残っています。
父や兄に言われるがまま、アグネスチャンや、桜田淳子さん、森進一さんや、前川清さんやピンから兄弟の歌を物真似しながら歌っているものです。時々、父と祖母が聞いているので、恥ずかしくて仕方ないです。
昭和55年頃、高校に行っている昼の時間にFMのラジオ番組を録音するためのタイマーを購入しました。まず、コンセントを抜いた状態でラジカセの録音ボタンを押しておきます。そして、コンセントをタイマーに差し込みます。そのタイマーは文字盤の円周部分に穴が空いていて、ピンを差し込んだ位置の時間でオンオフができました。15分刻みでしか設定できませんでしたが、エアチェックの頼もしい助っ人でした。
昭和38年、小学4年生の時、父親が何を思ったか突然オープンリールのテープレコーダーを買って来ました。父と2人で何か録音したいと辺りを探したところ、目の前で母親がイビキをかいて昼寝していたので早速顔の前にマイクを置き録音しました。起きた母親にイビキを聴かせると「私じゃない」と泣き出し、それから3日間は食事は作ってくれたものの、一言もしゃべってくれませんでした。
僕が幼い頃、昭和50年代前半はまだ家庭用ビデオカメラが普及する前でした。その代わり、家族の団欒などをカセットテープで録音して記録する事が流行っていたような気がします。
そして、近所の友だちが集まると、各家庭の自慢の録音を聴いて楽しむというのがありました。我が家のカセットテープに記録されていたのは、当時の人気アニメ「あらいぐまラスカル」のオープニング曲「ロックリバーへ」を僕が熱唱しているものでした。とても恥ずかしいと思いながらも、何故か笑い、笑われながら何度も聞いていました。
別の友だちの家の自慢の録音には、お父さんの大きなイビキというのもありました。こちらもみんなで笑いながら何度も聴いて楽しんだ思い出があります。
私の一番古い記憶は小学1年生。「月賦」で買ったテープレコーダーで、長嶋茂雄選手の引退セレモニーを泣きながら録音する父の背中です。周りの雑音が入らないように、レコーダーとブラウン管テレビを線のようなものでつないでいました。私は5年生になるまで、そのテープレコーダーで歌番組を録音しました。
さて、次週5/4も「昭和の録音」で行きましょう。
ペットの鳴き声を録音した、ラジオパーソナリティのように喋って録音してみたetc次週も昭和の頃の録音にまつわる思い出・メッセージをお待ちしております。
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=Fb3aUQzwSMs
テーマは「昭和の背番号」
阪神巨人背番号クイズもお楽しみに!
昭和の 雑魚寝
2025年04月20日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の雑魚寝」で30分。
雑魚寝と言えば、小学生の頃、夏休みで祖母の家に泊まる時はいつも蚊帳で、皆で寝ていたことを思い出します。布団を取りあいながら。すごく田舎で、家の前に田んぼがあり、のどかでいいところなんですが、蚊が多くて寝ながらかゆくて、バチバチ手で払いながら寝ていた記憶でいっぱいです。
高校時代文化部の女性ばかり20名くらいで合宿とは名ばかりで、室積海水浴場近くの民宿に行きました。
“話し方に癖のある年配の顧問”と“まだ若い副顧問”は二人とも男性でしたが、合宿は20畳近くある民宿で一泊二日で、海水浴を楽しんだり散策をしたりしました。
夜は先生二人はビールを飲んで、私達はジュースやお菓子でワイワイ騒ぎ、『デンセンマンの電線音頭』を得意としていた年配の顧問が振り付け通りに歌いながら踊ってくれたりして、みんなは手拍子で盛り上がりました。ゲームや雑談をした後、みんなくたびれて雑魚寝をして一夜を過ごした楽しい思い出は47年経った今でも忘れることはありません。
昭和40年50年、私が二十代の時は会社の独身寮に入っていました。
部屋は四階建ての南向きで、夏は西日がまともに入り、おまけに鉄コン筋コンクリート造りなので熱を持ち、まるで蒸し風呂です。
当時はエアコンどころかクーラーも無く、唯一扇風機が寮で涼を取る手段でした。
そんな部屋で寝るのは地獄なので、夏の夜は、一階に有った食堂に集まり雑魚寝です。
床は塩ビで、窓を開ければそれなりに快適だったけど、午前一時頃から寝息が聞こえ始める毎日で、睡眠時間は長ごぉなかったはずじゃが、若いちゅうのぁ凄いのー。その分、休みの日には、よく寝てましたけどね。
我が家は、一階がバーで、二階が居住区でした。
夏の暑い夜はクーラーのある一階で寝ました。
ソファーを寄せ集めて家族で寝ます。
壁にとまっている大きな女郎蜘蛛が今でも記憶の底に張りついています。
昭和57年の23歳の頃、一人暮らしのアパートに小学校の時の友達が二人市外から遊びに来ました。
畳の部屋は四畳半で押し入れが四畳半の上に出っ張ってる感じで、畳の上にベッドも置いてたのでかなりの狭さでしたが、二人は一晩泊まっていきました。
私が自分のベッドに寝て、友達は狭い畳の上に雑魚寝状態。今、思い出すと遊びに来てくれたのにひどい扱いだったと思いますが、友達といえど自分のベッドに寝かせるのはなんか抵抗があったんです。
「昭和の雑魚寝」で思い出すのは、フェリーの大部屋での「雑魚寝」です。
入社当時、会社の研修で伊豆大島に行きました。
竹芝桟橋を夜中に出航し、朝に伊豆大島に着くフェリーの旅でした。
そのフェリーの客室は2等の大部屋で寝る際は「雑魚寝」でした。私は大勢の中で、なかなか寝られず、デッキに出て一晩明かしました。
当然、大島での研修初日は眠たくてオリエンテーリングでは頭が回らず、人に付いていくのが精一杯でした。
昭和の若者の冬のレジャーはスキーでした。短大生の時に信州へ通い始めて、宇部に帰ってからは結婚するまで大山スキー場に何度も行きました。地元の会社のスキー部の人達の中に入れてもらって、年末年始に3~4泊していました。宿では大広間に男女が雑魚寝でした。
さて、次週はテーマチェンジ。「昭和の録音」で行きましょう。
逆探知できません、TVの前にラジカセ置いてマッチの歌を直録、録音した自分の声を聴いてびっくりetc昭和の録音の思い出・メッセージお待ちしております。
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=-VUaJ1WXHQU
テーマは「昭和の地下②」
山根さんは富士山麓の「麓」が書きたくて練習したそうです。
昭和の 突然PART2
2025年04月13日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は、突然ですが、山根さんはお休み。代打の切り札、33年生まれ67才 渡辺三千彦さんのご登場。
今日は大阪関西万博開幕ということで、三波春夫さんもかけながらお送りしました。
渡辺さんは昭和45年の大阪万博、2回行ったんですって。
今週は「昭和の突然 PART2」で30分。
私が小1くらいの時だったと思います。自転車を買ってもらい「まだ公道で乗ってはいけない」という約束を破って乗ってしまい、藪土手に落ちたのです。 枯葉や草が有り怪我も何もなかったのですが、それを川を挟んだ幼馴染みの家で、おじさんがたまたま見ていたらしくて、「Sちゃんが道から突然消えたかと思うたら、土手を上るのがなんとも早かった」と父と話したそうでした。いけないと言われてたことをやったという後ろめたさから、あの速さが生じたのでしょう。父がその日おじさんから聞いたことを笑いながら話してくれたのでした。
小学5年生の4月、転校初日でした。
自己紹介の直前に廊下で待っていた母に手招きされ、突然「苗字が変わったから」と言われました。
両親が離婚して母に引き取られた私はまだ元の苗字のまま。いきなり言われても「藤」の漢字はまだ習ってないから書けませんでした。
担任の先生の機転で「事無き」を得ましたが、後々そのことでクラスの男子にいろいろ言われました。
なぐさめてくれると思った先生にも「強くなりなさい」と叱られました。この先生には6年のときも受け持ってもらいました。卒業式の日にもらった色紙は宝物です。
昔、近所の悪ガキと、木切れを集めて1人用の船を作ることになりました。何とか船の形を作り、仕上げの防水をするのですが、昔の道路は、コールタールが主な材料でできていて、道路のかけらを拾ってきてカンカンの中に入れて火であぶると、コールタールが取り出せました。みんなで太田川まで船を運び私が最初に乗りました。みんなが船を押し、5メートル位進んだところで…「突然」船底が抜け…、みんなが大笑いでした。
昭和38年7月、山口市の小学校4年の時、夏休み帳を受け取ると、裏表紙全面に「私の絵」が載っていました。それは、1年前、3年生の夏休みに「働く人」という題で山口市営バスの車庫で、バスの下にもぐって修理している人を描いたもので、担任の先生が応募して採用になったらしく、突然のことでびっくりしました。
23歳の時、購入したい車の値段交渉をしていました。それは“カローラレビンAE86”です。
ディーラーさんに半年通い、来週辺りに契約するつもりでいた矢先。
映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー パート1」を観ました。ラストシーンに現れた、4WDのピックアップトラックに一目惚れ。
翌日、カタログを貰いにトヨタのお店に行きました。
すると、その夜、突然、昼間対応してくれたトヨタの人がアパートに。
1時間後、契約書に印鑑を押す自分。
あれから40年、乗り継いだ車は、全て4WDです。
小学5年のある日、突然、TVがやってきました。
電気店の人が、屋根にアンテナを設置。
夕方、「さあ、観ていいよ」と言われ、switch on!
しばらくして、ブラウン管に映像が現れる。
某TV局の人形劇。
黒柳徹子、横山道代、左卜全、益田喜頓、南利明、由利徹、藤村有弘、楠トシエなどが声優として出演していた、「チロリン村とくるみの木」でした。
この日から、居間の箪笥の上に鎮座していたゼネラルの大きな真空管ラジオは引退してしまいました。
さて、次週はテーマチェンジ。渡辺さんのリクエストにお応えして「昭和の雑魚寝」で行きましょう。
渡辺さんが入社したころの泊まりロケは、先輩スタッフと雑魚寝。いびきが凄くて一睡もできなかったとか。友達の家で雑魚寝、フェリーの2等室で雑魚寝すると洗面器が置いてある、富士山山頂の宿泊は狭い所で雑魚寝etc昭和の雑魚寝の思い出・メッセージお待ちしております。
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=O4tDHVGwaxI
テーマは「昭和の地下」
山根さんは、15才の時に大阪梅田の地下街に初めて降りて、一生出られないかと思ったって。
注目!動画制作している音声さんが地下道の映像を紹介してくれています!
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