ご昭和ください

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昭和の 迷った買い物

2025年09月14日

今週は「昭和の迷った買い物」で30分。
予算が限られているとか、ひとつしか買ってもらえないとかで迷うんですよね~。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
子供の頃、切手を集めておりました。
外国の切手は売っている所が近くになく、もっぱら通信販売でした。
毎月一回、ワンセット100円から300円ぐらいの切手が10セット送られて来て、好きな物を選び、残りの切手と、買った分の金額の、郵便局で売っている定額小為替を、同封して返送するというシステム。今、考えると信用と信頼に支えられてる素晴らしいシステムでした。
毎回、迷いましたが、お金ないので、お安いセットばかり買ってました。お安い切手は、ハンガリーやポーランド、ルーマニアなどの東ヨーロッパの国が多かったです。
後から知りましたが、切手の輸出は、外貨獲得の為に貴重な方法だったようです。
 
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
高校生の時、同じ時期にThe Go-Go’sとAC/DC の来日公演があり、両方行くのは経済的にも時間的にもキビシイのでどちらのチケットを買うか迷いました。
その時のAC/DCの曲もめちゃカッコよくて好きだったのですが、でも女の子バンドをやっていたこともあって私はやっぱりGo-Go’sだよね~♪と思ったのですが、一緒に行く友達グループの中で Go-Go’sに行きたがったのは私だけ。結局、多数決で負けてAC/DCのコンサートに行きました。
学校帰り、駅のトイレで着替えて会場前で入り待ちしていた時も私ひとりGo-Go’sを歌って盛り上がってました。
でもとにかくAC/DCはオープニング曲 For Those About To Rockのイントロが最高にカッコよくて、今でも大好き!!AC/DCに行って良かった!
 
≪昭和??年生まれのリスナーさん≫
バブルで好景気に沸いていた時に、先日亡くなったジョルジョアルマーニのブランド傘を買いました。一万円を超える傘なので少しためらいましたが買っちゃいました。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
お年玉で少女雑誌の「りぼん」や「なかよし」を買おうとお店の前を何度うろうろしたことか。付録が豪華で厚く盛り上がった雑誌が買いたかったけれどついつい勿体なくてやめました。正月が過ぎてお年玉は母の元へ移りました。でも貸本屋さんがあって借りることが出来ました。貸本屋のおばちゃんが付録を譲ってくれました。
 
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
小学5年の時に放送が始まった宇宙戦艦ヤマトを観て天体望遠鏡が欲しくお金を貯め始めました。
中学になると、友達のやっちゃんが「野鳥を撮りたい」とカメラを買いました。やっちゃんの家に行くと、勉強机の2番目の引出しから取り出したのがフィルム式の一眼レフカメラ。
フィルムの装填、重厚なシャッター音、
レンズの交換、会社名の入ったストラップ、
全てがカッコイイ。
雑誌で見る望遠鏡or実物が目の前にあるカメラ。
貯めていたお金はカメラ変わりました。
キャノン、ニコン、ミノルタ。
メーカー選びも悩みましたが、
ロゴに惹かれ、旭光学に決めました。
 
さて、9/21も「昭和の迷った買い物PART2」で行きましょう。A定食かB定食か、スキー板、ラケット、フィミコンかセガ、VHSかベータetc昭和時代に迷った挙句買った・買わなかった、その後のエピソードも含めてお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=r9d0IM8giNA
テーマは「昭和の一人で遠出」
道がわからなくなったら店に入って訊く!これ鉄則

昭和の 応援PART3

2025年09月07日

今週は「昭和の応援PART3」で30分。
3週連続同テーマですが、今回もたくさんメッセージは来ましたね~。
 
≪昭和44年生まれのリスナーさん≫
下松市内の某工業高校に通っていましたが、その当時の高校野球の応援を思い出します。高校野球の山口県大会の予選が始まると、1年生と2年生は野球の応援に行かなくてはなりませんでした。1年生の時、初めての応援を控えて、応援団の先輩がたが教室に来て校歌や伝統の応援歌を教えに来るのですが「お前ら!声が小さいんじゃゴルァwww!!」と大声を出し、いきなりカオスな状況。さすがに体罰などはありませんでしたが、あまりの空気にみなドン引きでした。
そして、野球の応援当日。夏休みが始まっていたので徳山市野球場までは現地集合。そして野球部の応援が始まりますが、当時は「運動中に喉が渇いても水を飲むな!!」の時代。野球部が頑張っている時に応援する生徒の水分補給などは許される訳がありませんでした。でも、吹奏楽部や応援団などは水分補給が許されていて、彼らが冷たいお茶をゴクゴク飲むのを見て、凄く理不尽なものを感じたのを今も覚えています。
応援が終わると、速攻で野球場の近くにあったスーパーに行き、ジュースの自販機で1リットル瓶のコーラを買い、ラッパで一気飲みしました!!
この時のコーラ、ぶち美味しかったのは今も忘れられません。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
小学校2年生の運動会でした
当時、校区の中を分団で分けていて私が住んでいた所は第3分団でした。分団対抗のリレーがあって各学年から男女一人ずつを選抜して競いました。足が遅かった私がまさかのリレーの選手に選ばれて、親は大喜びで応援してくれました。
何故、私が選手になれたかというと、2年生の女子は二人しか居なくて相手の子は私よりまだ遅かったのです。当日、父は私をカメラにおさめてくれましたが、私の前後は誰も写っていなくて独走状態。6年生の男子がその年の文集に「ウチの分団は2年生の女子が遅かったのでビリだった」と書いていてひどく傷つきました。
 
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
高1のとき、高校野球応援のチアガールに「くじ」で当たってしまいました。仕方なく、燃えろいい女とか、ヤングマンとかを踊りました
うちの弱小野球部がベスト8までいってしまい、もう大変の日々でした。ただ、学ラン姿の応援団長は何となく格好よかったです。
 
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
私は、高校の時、応援団長をしました。
応援団長といっても、自分から成ったわけではなく、抽選で仕方なく選ばれた「成行き応援団長」でした。
当時、応援練習の風景がKRYのニュースで放送されました。
そして、その年の秋、文化祭のステージで歌を歌わされる羽目になり、かぐや姫の「加茂の流れに」をクラスの友達と二人でギターを弾きながら歌いました。応援団長をしていた私は生徒に面が割れているので「よっ、団長!!」と冷やかしの声援。
紙テープやトイレットペーパーが飛んできました。
 
さて、9/14は新しいテーマ「昭和の迷った買い物」で行きましょう。ショーウインドーに飾ってあったギター、ファミコンのカセット、ラジコンのモーター、自分には不釣り合いのモカシンの靴etc昭和時代に迷った挙句買った・買わなかった、その後のエピソードも含めてお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=MhiKBXbHhLs
テーマは「昭和の真夜中②」
今週も山根さんのユニークなお友達のお話が満載です!

昭和の 応援PART2

2025年08月31日

今週は「昭和の応援PART2」で30分。
今週もいっぱいメッセージは来ましたね~。
 
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
中学の時からアメリカのロックバンド・チープトリックが大好きで、ちょうど高3の時、レコード会社とのトラブルなどで低迷していたので、つたない英語で 応援ファンレター(ハガキ)を毎週1枚アメリカの事務所に送り続けました。印象に残るよう、毎回、「Have a happiness!」という変な決まり文句を添えて。彼らへ応援ハガキを送り続けることは、受験生で不安いっぱいの自分への励まし心の拠り所でもありました。今でも全く形式的なものではありますが、今でも、毎年チープトリックからクリスマスのハガキが届きます。
 
≪昭和48年生まれのリスナーさん≫
小学生や中学生の頃、12月に開催される「防府読売マラソン」の応援に、毎年行っていました。あの頃のコースは、右田中学校発着で徳地が折り返しの、佐波川沿いを走るコース。
まずは、スタート地点の右田中学校に行き、スタート前の緊迫した雰囲気を味わうのが楽しみでした。
レースがスタートしてからは、歩道を一生懸命ダッシュしながら「行けー!頑張れー!」と応援したり、自転車で猛ダッシュしながら熱烈応援していました。
それでも、子供の足で一生懸命走ったり、自転車を漕いだりしても、選手達はドンドン離れていく。
「マラソン選手はメチャクチャ足速いなぁ!あの速さで42.195k 走るのはブチ凄い!」と、毎年毎年、驚嘆していた事も本当に懐かしいです。
 
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
昭和58年頃、私が高校1年の時、防府市公会堂であった田原俊彦さんのコンサートに行きました。会場内は、女の子の黄色い声援が響き渡り圧倒されました。コンサート終了後、外に出ると、ずっと声援の大音響を聞いていたので耳が詰まり、しばらくツバをゴックンゴックンしていました。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和55年、高校1年生の文化祭です。
初めて見るステージの演奏は先輩男子バンドの
Deep Purple 「Highway Star」。
ハードロックの大音響と、上下白の衣装で熱唱する先輩への最前列に陣取った女子から飛ぶ熱い声援にビックリ。アイドル以外で「キャーキャー」叫ぶ女子を見て「ハードロックってモテるんだ…」と感じた16歳でした。
 
さて、9/7も「昭和の応援」で行きましょう。久々の3週連続テーマ。球場のスタンド、応援中に飲み食い、チアガール、応援団長、校内マラソン大会etc昭和時代の応援にまつわるエピソードをお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=6z8S4ZxqDOw
テーマは「昭和の真夜中」
深夜放送にまつわる思い出が多いですね~。

昭和の 応援

2025年08月25日

今週、高橋裕はお休みをいただきまして、
昭和34年生まれの66才の山根さん、昭和33年生まれ67才の渡邊三千彦さんの2人で井戸端トーク。オープニングから長い!
テーマは「昭和の応援」で30分。
今週もいっぱいメッセージは来ましたね~。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
小学5年生の運動会で赤組の応援団に入りました。今思えば、相当な引っ込み思案の私が応援団になるなんて、不思議でなりません。体操服のブルマー姿は絶対に見せられませんが女子はみんな嫌でしたね。今はパンツタイプだから羨ましいです。
 
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
昭和の応援ですが、PL学園の人文字です。
私、KKコンビと同級生なのですが、昭和60年のPL学園対宇部商の試合は忘れられません。
あの人文字の応援は、野球も強いけど、応援も強いというインパクトが大きかったです。
私の中学校は生徒数が多くて、みんなの進路など覚えていませんでしたが、宇部商に中学校の同級生がメンバー入りしていて、すごく野球を頑張っていたんだなと、テレビの前で熱く応援していました。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の応援で思い出したのは、アイドル歌手のコンサートでの応援グッズです。
代表的なのは、『ペンライト』と『紙テープ』でしょう!
 
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
高校は下関の女子高でした。秋が体育祭でした。
応援団をクラスで何人か出すのです。私もなりたくて立候補したのですがなれませんでした。
なにせ、そのメンバーのビジュアルのレベルが高くて(笑)
でも、好きで放課後練習するのをみたりしていました。私達のクラスはシブがき隊の「ぞっこんLOVE」と浅香唯の「Cガール」でした。ラジカセで音楽を流して練習するのですが、「せーの」と、いって再生ボタンを押すのに、「ガチャっ」と、カセットテープが飛び出し大笑いしました。
でも、本番では、大成功だったと思います。
その甲斐があってか、優勝していました。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
父は足が速く、お祭り騒ぎが大好きでした。学校や町内の運動会でも力走。なので、私達子どもの徒競走の時は大きな声で名前を叫び応援するのです。私は足が遅くとても恥ずかしかったことを思い出します。
 
≪昭和31年生まれのリスナーさん≫
田舎生まれ田舎育ち、勉強は出来ずやらずの不出来な私ですが運動会は好きでした。
父は妹弟が多く下の方の叔父とは私の方が歳が近かったです。小学校の運動会には父がその叔父達も呼んでいたので、今思えば母はお弁当作りが大変だったでしょう。その叔父は、父と似てはいましたが、父よりはるかにカッコ良くオシャレだったので、まわりの保護者達から「あのカッコイイ人は 誰かね…」なんて声が聞こえ、私はちょっと誇らしく、叔父や叔母が応援に来てくれるとお小遣いも貰えたのでそれも楽しみだったのでしょう。
 
さて、次回8/31も「昭和の応援」で行きましょう。プロ野球、体育祭、アイドル、コンサート、アルプススタンド、プロレス、相撲、こっそり応援etc昭和時代の応援にまつわるエピソードをお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=qrzfR08Z6zw
テーマは「昭和の親父の趣味②」
今週は、上田アナの超能力に迫る!乞うご期待!

昭和の 一人で遠出 PART2

2025年08月17日

今週は「昭和の一人で遠出 PART2」で30分。
今週もたくさん寄せられました。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和47年、短大の入学金を納める為に現金を持って一人で西宮市に行きました。金額は35万円くらいで大金でした。新幹線も東京、岡山間しか通っておらず急行で行きました。支払いと同時に、制服がある短大だったので採寸などで本人が行かねばならず、親が同行すれば旅費が要るので、私、一人。途中で何事かあってはいけないので、親がお金を下着に縫い付けた袋の中に入れてくれました。支払う時に服をまくって出さなくてはならなくて恥ずかしかったです。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和59年、中型自動二輪免許を取って初めてのツーリングのこと。当時、住んでいた愛知県北西部から国道41号を愛車「RZ250」であてもなく北上するプランです。1時間ほど走ったところで、信号待ちしていると1台のオフロードバイクが並びました。ふと見ると同じバイクショップのステッカー、また、ナンバーがなんと1番違い。年が同じくらいの彼と意気投合して、彼の目的地・下呂温泉に行き、ひとっ風呂浴びました。帰りは一緒に地元に戻った不思議な出会いでした。
 
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昔、父から伝え聞いた話です。
太平洋戦争末期、父の姉(私の伯母)は兄のいる山形県まで一人で会いに行ったそうです。どういう経路で、どうやって山形まで行ったのかは分かりません。兄と合流して二人で山口に戻る予定でしたが、台風か、集中豪雨の影響で最上川が氾濫し、街中が壊滅状態に。鉄道や道路は崩壊し、家族と連絡も取れず、ただ山口を目指して線路沿いを歩いたそうです。そんな時に兄に召集令状が来て、行方不明と申告するのに、「徴兵を拒んだ脱走ではないか」と大騒ぎになったそうです。そこへ二人が無事帰還。家族みんなで、ほっとしたそうです。線路沿いを歩いたので足の裏は枕木のタールでべっとりだったそうです。その後、兄は出兵し、南の島で亡くなりました。
水害も戦争もない方が良いですね。
 
≪64才のリスナーさん≫
中学2年の夏休みのこと。山陽新幹線が博多までつながったこともあり、1人で長野の祖母の家に遊びに行きました。数日、祖母の家で遊んだ後、宇部に帰る時、長野駅から「特急しなの」で名古屋駅まで戻り新幹線に乗り換えたのですが、当日、台風が近づいていた為、雨がひどく名古屋で乗り換えた新幹線が数時間停車待ちをすることになってしまいました。数時間後、新幹線が発車して新山口(旧小郡)駅に深夜に到着したのですが、当然、在来線は走っておらず、タクシーで宇部市まで帰りました。払い戻しの特急料金はタクシー代で無くなりましたが、なんとか家に帰る事が出来ました。
母親は、「夕方のニュースで自分がテレビに映ったのを見て安心した」と言っていたのを思い出しました。もちろん、名古屋駅のホームで、きしめんも食べました。
 
さて、次回8/24は「昭和の応援」で行きましょう。野球、サッカー、駅伝、運動会、受験、アイドル、応援部、メガホン、法被etc昭和時代の応援にまつわるエピソードをお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=2V0bTpnnshc
テーマは「昭和の親父の趣味」
突然♪王将を歌い出す山根さんにご注目!

昭和の 一人で遠出

2025年08月10日

今週は「昭和の一人で遠出」で30分。
今週もたくさんメッセージ代の真夜中のお話、たくさん寄せられました。
 
≪昭和37年生まれのリスナーさん≫
広島市で一人暮らしを始めて少したったある日のこと。地図を持たずに感だけで1人自転車旅を決行しました。その時、それまで住んでいたところと違いを感じた事は、川や橋がデカイ事、パチンコ店やお好み焼き屋が多い!などが印象的でした。
さて、ボチボチ帰ろうかなとなりましたが、気まぐれだけで自転車を漕いだので方角が分からなくなり心細くなっていたその時、絶対にあるわけないと思っていた広島駅を遠くに発見!!駅を目指して着いたら、もう安心。そこからは電車道を頼りに正確なルートを通って帰りました。
 
≪昭和46年生まれのリスナーさん≫
小学5、6年生ぐらいの夏休みか、冬休みに、どうしても、校区外にある下関駅近くの映画館に「あしたのジョー2」を観に行きたくなり、母にバス代と映画チケット代をオネダリして、初めて「1人だけでのバス乗車」と「1人だけでの映画鑑賞」を決行致しました。
まぁ、ドキドキした様な記憶は微かに有りましたが、それよりも「あしたのジョー2」での衝撃的なラストに小学生ながら帰りのバス車中でもズッ―と泣いてた事が54歳になっても忘れられない思い出です。
 
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昭和時代に一人で遠出と言うと、大学の学園祭シーズンの休みに、アルバイトして買った愛車サニーで、友達の住んでいる福岡のアパートまで一人で行きました。当然、携帯もなく、ナビもなく、紙の地図と、「高速の福岡インターを降りてから何km先の〇〇交差点を左に曲って・・・」という友達が書いたメモを頼りに目的地まで何とかたどり着きました。友達へ色々お土産を持参しましたが、米5キロが一番喜ばれました。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の一人で遠出で思い出したのは、中学時代の自転車と、高校時代の原付バイクです。
中学時代は自転車で、片道1時間以上掛けて釣りに行ってました。
高校時代は原付バイク(クラッチ付)で、ただひたすら国道を何時間も走り、適当な駅で、トイレ&自販機のジュース飲んで帰ってくる、なんてことをやってました。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
私は小学生の低学年の時は全く泳げませんでした。それを見かねた母が、広島のスイミングスクールに通わせてくれた事を思い出します。一人で電車に乗って広島の温水プールに通っていました。大人になって聞いた話ですが、母はバレない様に尾行していたみたいです。
お陰様で、中学生の時は、水泳部に入り県大会に出られる様になりました。母には感謝しています。
 
さて、次回8/17も「昭和の一人で遠出」で行きましょう。大都会に一人で、一人で新幹線で、一人でフェリーに乗ってetc昭和の頃の遠出にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=K3zN6aHvgDk
テーマは「昭和の一生の思い出 PART2」
山根さんのボヤキ「今は何でもスマホで撮るんちゃのう。あんたが何食べようがワシはどっちでもええんよ」

昭和の 真夜中2

2025年08月03日

今週は「昭和の真夜中」で30分。
昭和時代の真夜中のお話、たくさん寄せられました。
 
≪昭和33年生まれのリスナーさん≫
私にとって昭和の真夜中はやっぱり深夜放送。セイヤングの天才秀才バカシリーズを電波の悪い中(私が住んでいた松山は文化放送はなかったので)必死で聞いていました。最後の落ちの時に電波が悪くなり、バンバンの馬鹿笑いで復活するという悪条件の中聴いていました。今でも覚えているフレーズは「大地を揺るがす象のイヤイヤ」
よく聴いていた、オールナイトニッポンのカメ&アンコウのカメちゃんがニッポン放送の社長になったのには驚きました。
 
≪昭和37年生まれのリスナーさん≫
昭和の真夜中で思い出すのが専門学校時代(56年〜57年)広島の繁華街を、深夜同じぐらいの年齢の男が車に乗って同じぐらいの年の女の子に声をかけて、上手くいったら一緒にドライブデートしてました。
ですが今みたいにコンビニもカラオケも無く、うまくいっても岩国までの往復ドライブでした。
でも、知らない女性と色々世間話ができてスマホが無くてもメモ紙で連絡交換などして楽しかったです。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の真夜中で思い出すのは新幹線の陸上輸送です。大学生になり下宿し始め、はまったゲームは「ゼビウス」。夜中にゲームセンターに出かけては、ランキングトップを目指していました。
そんなある日、ゲームセンター帰りの深夜、目に飛び込んできたのは巨大なトレーラー。新幹線を乗せて片側3車線の大通りをゆっくりと進んでいったのを覚えています。赤いライトに照らされて幻想的でもありました。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
小学生の時の夏休みに、祖父母の家に泊まりに行きました。
大きな畳の部屋に寝ていると、真夜中に、目が覚め、振り子時計の『カチカチカチカチ……』と言う音が気になり、眠れなくなり。更に、仏様を見ると、ご先祖様の写真が、こちらを見ていまして。怖くて怖くて、朝まで眠れませんでした。
 
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
真夜中に移動すれば行った先で朝から色々と見て回れます。東京とかに遊びに行くのに利用していたのが寝台特急や夜行バスです。徳山や小郡から、色んなブルトレに乗りました。「あさかぜ」に「さくら」「富士」など色々でした。客車は二段だったり三段だったりでしたが、やはり上の段をよく取っていました。ブルトレは乗っていて楽しいんで、寝たような寝てないような感じでした。
夜行バスは、当時は二人並んでの席だったので気を遣いながらで、寝た感じはしなかったです。
 
さて、次回のテーマは「昭和の一人で遠出」で行きましょう。ちょっとした冒険、自転車で遠出、街へ出る、おばあちゃん家に行く、ドキドキしながらバスに乗るetc昭和の頃の遠出にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=Gs6B9aJ2pDE
テーマは「昭和の一生の思い出」
山根さんの衝撃は“生ジャイアント馬場”だそうです。

昭和の 真夜中

2025年07月20日

今週は「昭和の真夜中」で30分。
昭和時代の真夜中のお話、たくさん寄せられました。
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の真夜中で思い出したのはやっぱり「ラジオの深夜放送」ですね。
ラジコなど無い時代、リアルタイムで聴くため、
しばしば寝落ちしてましたが、洋楽に興味を持つキッカケとなったりしました。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和の真夜中、といえば中学高校生の頃は深夜放送ですね。中学生の頃は22時頃に一度寝て1時頃に起きて深夜放送を聴いていました。たまに目が覚めず朝まで寝ていたこともありました。当時はこちらの方にはネットされてなかったので雑音が入る中、東京の放送局を聴いていました。曜日によって3つの放送局から選んで聴いていました。
 
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
昭和50年代、宇部市の住宅街に「ナイトショップ○○」という24時間営業の店ができました。当時はまだコンビニなど無い時代で、そのお店はコンビニのような垢抜けた雰囲気ではなく、小規模なスーパーという感じでした。静かな暗い住宅街にコウコウと浮かび上がるその場所は 最初 何の店かわからず怪しげに見え、近付きがたかったです。でも、普通の店だとわかり、夏の夜10時頃、母と散歩がてら行きました。店は40歳くらいの男の人が一人でやっていて、私達はお菓子やアイスを買いました。夜中に出かけるというのはちょっとスリリングで、ウキウキしました。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
自分が玖珂に引っ越しをして来た頃は、近くにコンビニが1軒も有りませんでした。夜遅くに欲しい物が有る時は、ドライブを兼ねて元々住んでいた岩国市の中心部に出かけるか、我慢した記憶があります
 
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
高校生の頃、土曜日の深夜1時から始まる深夜映画を一人で見るのが好きでした。暗い真夜中の静まりかえった夜に見る映画は、結構インパクトがありました。なかでも「ゾンビ」これは強烈でした。
深夜だけあって、怖いながらもストーリー展開が面白く、どういう結末になるのかドキドキしながら見ていました。
 
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
中学生の頃、年に1、2度母親が留守にする日があり、兄貴もいない1人だけの時がありました。
もう、中学生で夜中1人なんて、パラダイスですよね!当時、真夜中には、お色気番組があり、朝から期待に心は燃え上がってました。
しかし、なぜかいつも、番組が始まる数分前に、寝ているんですよね。気が付くとテレビの画面は、砂嵐になってました。
 
≪昭和30年生まれのリスナーさん≫
昭和46年、商船高専に入学して学生寮に入りました。寮は、1年生から3年生までの4人が同じ部屋に入り、3年生は、神様のような存在で1年生には、ほとんど自由はありませんでした。
1年生同士で部屋で話をしたりは全くできない状態でした。このような寮で、真夜中には、1年生が自由になれる場所がありました。寮では、23時に消灯になり、普通の人は寝る時間ですが、この時間に、ラグビー部の1年生は、ラグビーボールを持って、寮の屋上に集まっていました。その日に練習で使用したボールをきれいに磨いていたのです。ラグビーボールは、皮でできていて、磨けば新品のようにきれいになっていました。この時間の屋上には、ラグビー部の1年生だけで、自由に話をしたりお菓子を食べたりできる場所でした。ラグビー部1年生の真夜中の楽園でした。
 
さて、次回もテーマは「昭和の真夜中」で行きましょう。真夜中の電話、徹夜勉強etc昭和時代の真夜中の思い出・エピソードをお待ちしています!
 
なお、夏の高校野球山口大会の期間中は日曜日に実況中継があった場合は、「ご昭和くださいはお休み」となりますので、野球中継をお楽しみください!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=zkTTkHJ_MJo
テーマは「昭和の私の帽子②」
山根さんは「鉄琴」と聞くと「鉄筋コンクリート」を想像する…
 
また!
今回の放送から、リスナープレゼントのノベルティグッズが新しくなりました!
今回からは、ご昭和ください特製“御礼タオル”。タオルの下に企業名が印刷されている粗品タイプのタオルを作りました。これまで、てぬぐい→ふろしき→2代目てぬぐい→扇子、そして御礼タオル。
ぜひとも、貰ってやってくださいませ~。

昭和の 親父の趣味PART2

2025年07月06日

今週は「昭和の親父の趣味 PART2」で30分。
今週も昭和時代のお父さんたちの趣味話がたくさん寄せられました。
 
≪昭和40年生まれのリスナーさん≫
私が小学生の頃、父は8mmフィルムカメラにハマっていて、家族旅行などでたくさん撮影していました。家族を撮るフリをして必ず通りすがりの若くてキレイなおねえさん達をフィルムに収めていました。帰宅後、父はせっせとテープを切り貼りして編集し、いよいよ家族揃って上映会。
父は自宅でささやかな商売をしていて、夜飲んで遊んで帰ってくるなど全くなかったので、キレイな おねえさん達を追っかけている映像を母も姉も私も微笑ましく見ていました。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
昭和の親父の趣味、それはなんといっても野球ですね、見るのもやるのも好きでした。
高校生の時から軟式野球をやり社会人になってもやってました。見る方は長嶋さん全盛期の巨人戦をテレビ中継で見てましたが、テレビが始まる前と終わったあとはラジオを聴いていました。今、生きていたら試合開始から終了するまで見られるテレビには喜んでいたでしょう。
 
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
昭和6年生まれの私の父の趣味は何と言っても“お酒”で、毎日、瓶ビールと日本酒。母は、一升瓶にマジックで線を引いてお酒の残りを監視し「飲みすぎ!」と注意したけど効果なし。法事の時は最後まで居座って顔真っ赤のベロベロ、新婚時代には、職場の仲間を家に連れて来て飲む。母は、ただでさえイヤなのに「奥さん、ナマスの刺身が 酢でしまり過ぎ」と手作りツマミにクレームを言われ、スゴく腹が立ったと言ってました。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
父は切手収集、絵画、手品が趣味でした。
中でも手品は失敗続き。ユリゲラーを見てはスプーンを曲がらないと文句をいい、「木曜スペシャルに抗議電話する」と言い出すので家族全員で阻止しました。後に、ゼンジー北京さん、伊藤一葉さん、レッドスネークカモンカモンの人に夢中になり、手品の練習をしていましたが、上手にできたのを見たためしがなかったです。
 
≪女性のリスナーさん≫
昭和6年生まれの父は、田端義夫さんが好きだったようで、楽譜なんかは無く、もちろん読めもせず、 耳だけを頼りに中古のギターで「かえり船」を弾いていました。レコードもよく聴いていたので、私も自然に覚え、父の弾く「かえり船」のキーがだんだん変わっていくのが解りました。たまに吹く口笛も同じ音程だったので、よく母は「音痴の人は口笛も音痴なんだね」と言っては笑っていたものです。
 
≪昭和53年生まれのリスナーさん≫
母が生きていたら絶対に投稿していただろうと思い、母の父親の話を投稿します。
母の父は明治44年生まれ、生きていたら114歳。
思い出話でよく母が話してくれました。
川釣りが趣味で手がとても器用で、竿を木で削って作っていたそうです。
釣ったうなぎやナマズ、フナにコイなど、庭の池で上手に飼っていたそうです。
 
さて、次週のテーマは「昭和の真夜中」で行きましょう。山根さんは、24時間営業の店が出来ても最初は昼に行ってたとか。ラジオの深夜放送、徹夜勉強、夜通しドライブ、寝台特急etc昭和時代の真夜中の思い出・エピソードをお待ちしています!
 
なお、今年も7/12(土)から夏の高校野球山口大会が開幕します。日曜日に実況中継があった場合は、「ご昭和くださいはお休み」となりますので、野球中継をお楽しみください!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=0rjzwu5GgSQ
テーマは「昭和の私の帽子」
「僕は子供のころから頭の鉢が大きく…」って、高橋少年も同じです!

昭和の 親父の趣味

2025年06月29日

今週は「昭和の親父の趣味」で30分。
昭和時代のお父さんたちの趣味は多種多様ですね~。
 
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
大正9年生まれの父は、戦争から無事に帰って来ることが出来た反動なのか、実に多趣味な人でした。スキー ソフトボール 油絵 囲碁 カメラ 長唄 マージャン 日曜大工 たばこのパイプ収集 読書 等々。50号の油絵に始まり、山ほど作品を遺して逝きましたので、行き先に大変困りました。
 
≪昭和41年生まれのリスナーさん≫
私の父は、とにかく歌が大好きでした。朝起きてトイレに入るとすぐ歌声が聞こえてきたものです。
晴れた日には「は~れたそら~♪」と『憧れのハワイ航路』、雨の日には「しとしとぴっちゃんしとぴっちゃん♪」と『子連れ狼』を歌っていました。母に「朝の馬鹿歌はやめーさい!」としょっちゅう怒られていました。
人前で話すのは苦手なシャイな人だったのに、不思議と歌は人前で歌えるのです。家族同伴の社員旅行についていった時もバスの中で気持ち良さそうに歌っていたのを覚えています。
 
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
昭和5年生まれの父は、パチンコ、麻雀、そして父の部屋のタンスの上には、王将の駒、貝殻のオブジェ、木久蔵さんのサイン入り色紙、お土産の置物等がずらりと飾ってありました。部屋も綺麗に片付けていました。20年前に父が亡くなった時に駒と貝殻オブジェを貰い飾っています。今回また父を思い出す事ができました。
 
≪昭和45年生まれのリスナーさん≫
父の趣味は「ゴルフ」でした。
社会人一年生の夏、寡黙で偏屈な上司に連れられて、ルールもわからないまま始めたのがきっかけの様です。
昭和時代、優勝した際のトロフィーと優勝カップの写真を送ります。→HPのネタ写真に掲載
 
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
私の親父は、昭和2年生まれ、趣味は工具集めでした。今で言うDIYのはしりといいますか、床を直したり、棚を作ったりしていました。電動ノコギリや電動カンナがたくさんあり、母からは「同じようなものばかり買ってから!」と文句を言われていました。
ラジオを聴きながら、電動ノコギリを使って、五右衛門風呂にくべる薪を作っていたのをよく覚えています。
 
≪昭和28年生まれのリスナーさん≫
昭和4年生まれの私の父親の趣味は、「古式泳法」(両手に扇子を持ち立ち泳ぎをする等)に始まり、私が小学生の頃は「戸山流尺八」にはまり首振り3年音出し5年と毎日練習していました。その後は盆栽を始めたり、民謡クラブに入って揃いの浴衣を作り発表会に出たりしていましたが、最後はCDを買い漁りカラオケに熱中し94歳で亡くなるまで続けていました。
 
さて、次週7/6も「昭和の親父の趣味」で行きましょう。高橋少年の親父の趣味は民謡と言いましたが、さらに、将棋も良くやってた。親父の兄と一升瓶を片手に朝までやってたとか。
皆さんの親父の趣味にまつわるエピソードをお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日に更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=t9ycJsMDRUU
テーマは「昭和のお見送り」
山根さんは、駅のホームで万歳を受けて新幹線に乗ってきた新郎新婦を祝福したことがあったとか。


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