ご昭和ください

ご昭和ください ブログ

昭和の 録音

2025年04月27日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の録音」で30分。
 
小学校1年生の時のこと。担任の先生がちょっとしたトランクくらいの大きさの物を教壇に置きました。生まれて初めて見るテープレコーダーでした。家にはやっとテレビがやって来た頃です。録音機なんて家にはありません。先生はみんなの声を一人ずつ録音して聞かせてくれました。自分の声を自分で聴く!それはそれは衝撃的な体験でした。
 
私が四歳の頃のカセットテープが残っています。
父や兄に言われるがまま、アグネスチャンや、桜田淳子さん、森進一さんや、前川清さんやピンから兄弟の歌を物真似しながら歌っているものです。時々、父と祖母が聞いているので、恥ずかしくて仕方ないです。
 
昭和55年頃、高校に行っている昼の時間にFMのラジオ番組を録音するためのタイマーを購入しました。まず、コンセントを抜いた状態でラジカセの録音ボタンを押しておきます。そして、コンセントをタイマーに差し込みます。そのタイマーは文字盤の円周部分に穴が空いていて、ピンを差し込んだ位置の時間でオンオフができました。15分刻みでしか設定できませんでしたが、エアチェックの頼もしい助っ人でした。
 
昭和38年、小学4年生の時、父親が何を思ったか突然オープンリールのテープレコーダーを買って来ました。父と2人で何か録音したいと辺りを探したところ、目の前で母親がイビキをかいて昼寝していたので早速顔の前にマイクを置き録音しました。起きた母親にイビキを聴かせると「私じゃない」と泣き出し、それから3日間は食事は作ってくれたものの、一言もしゃべってくれませんでした。
 
僕が幼い頃、昭和50年代前半はまだ家庭用ビデオカメラが普及する前でした。その代わり、家族の団欒などをカセットテープで録音して記録する事が流行っていたような気がします。
そして、近所の友だちが集まると、各家庭の自慢の録音を聴いて楽しむというのがありました。我が家のカセットテープに記録されていたのは、当時の人気アニメ「あらいぐまラスカル」のオープニング曲「ロックリバーへ」を僕が熱唱しているものでした。とても恥ずかしいと思いながらも、何故か笑い、笑われながら何度も聞いていました。
別の友だちの家の自慢の録音には、お父さんの大きなイビキというのもありました。こちらもみんなで笑いながら何度も聴いて楽しんだ思い出があります。
 
私の一番古い記憶は小学1年生。「月賦」で買ったテープレコーダーで、長嶋茂雄選手の引退セレモニーを泣きながら録音する父の背中です。周りの雑音が入らないように、レコーダーとブラウン管テレビを線のようなものでつないでいました。私は5年生になるまで、そのテープレコーダーで歌番組を録音しました。
 
さて、次週5/4も「昭和の録音」で行きましょう。
ペットの鳴き声を録音した、ラジオパーソナリティのように喋って録音してみたetc次週も昭和の頃の録音にまつわる思い出・メッセージをお待ちしております。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=Fb3aUQzwSMs
テーマは「昭和の背番号」
阪神巨人背番号クイズもお楽しみに!

昭和の 雑魚寝

2025年04月20日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の雑魚寝」で30分。
 
雑魚寝と言えば、小学生の頃、夏休みで祖母の家に泊まる時はいつも蚊帳で、皆で寝ていたことを思い出します。布団を取りあいながら。すごく田舎で、家の前に田んぼがあり、のどかでいいところなんですが、蚊が多くて寝ながらかゆくて、バチバチ手で払いながら寝ていた記憶でいっぱいです。
 
高校時代文化部の女性ばかり20名くらいで合宿とは名ばかりで、室積海水浴場近くの民宿に行きました。
“話し方に癖のある年配の顧問”と“まだ若い副顧問”は二人とも男性でしたが、合宿は20畳近くある民宿で一泊二日で、海水浴を楽しんだり散策をしたりしました。
夜は先生二人はビールを飲んで、私達はジュースやお菓子でワイワイ騒ぎ、『デンセンマンの電線音頭』を得意としていた年配の顧問が振り付け通りに歌いながら踊ってくれたりして、みんなは手拍子で盛り上がりました。ゲームや雑談をした後、みんなくたびれて雑魚寝をして一夜を過ごした楽しい思い出は47年経った今でも忘れることはありません。
 
昭和40年50年、私が二十代の時は会社の独身寮に入っていました。
部屋は四階建ての南向きで、夏は西日がまともに入り、おまけに鉄コン筋コンクリート造りなので熱を持ち、まるで蒸し風呂です。
当時はエアコンどころかクーラーも無く、唯一扇風機が寮で涼を取る手段でした。
そんな部屋で寝るのは地獄なので、夏の夜は、一階に有った食堂に集まり雑魚寝です。
床は塩ビで、窓を開ければそれなりに快適だったけど、午前一時頃から寝息が聞こえ始める毎日で、睡眠時間は長ごぉなかったはずじゃが、若いちゅうのぁ凄いのー。その分、休みの日には、よく寝てましたけどね。
 
我が家は、一階がバーで、二階が居住区でした。
夏の暑い夜はクーラーのある一階で寝ました。
ソファーを寄せ集めて家族で寝ます。
壁にとまっている大きな女郎蜘蛛が今でも記憶の底に張りついています。
 
昭和57年の23歳の頃、一人暮らしのアパートに小学校の時の友達が二人市外から遊びに来ました。
畳の部屋は四畳半で押し入れが四畳半の上に出っ張ってる感じで、畳の上にベッドも置いてたのでかなりの狭さでしたが、二人は一晩泊まっていきました。
私が自分のベッドに寝て、友達は狭い畳の上に雑魚寝状態。今、思い出すと遊びに来てくれたのにひどい扱いだったと思いますが、友達といえど自分のベッドに寝かせるのはなんか抵抗があったんです。
 
「昭和の雑魚寝」で思い出すのは、フェリーの大部屋での「雑魚寝」です。
入社当時、会社の研修で伊豆大島に行きました。
竹芝桟橋を夜中に出航し、朝に伊豆大島に着くフェリーの旅でした。
そのフェリーの客室は2等の大部屋で寝る際は「雑魚寝」でした。私は大勢の中で、なかなか寝られず、デッキに出て一晩明かしました。
当然、大島での研修初日は眠たくてオリエンテーリングでは頭が回らず、人に付いていくのが精一杯でした。
 
昭和の若者の冬のレジャーはスキーでした。短大生の時に信州へ通い始めて、宇部に帰ってからは結婚するまで大山スキー場に何度も行きました。地元の会社のスキー部の人達の中に入れてもらって、年末年始に3~4泊していました。宿では大広間に男女が雑魚寝でした。
 
さて、次週はテーマチェンジ。「昭和の録音」で行きましょう。
逆探知できません、TVの前にラジカセ置いてマッチの歌を直録、録音した自分の声を聴いてびっくりetc昭和の録音の思い出・メッセージお待ちしております。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=-VUaJ1WXHQU
テーマは「昭和の地下②」
山根さんは富士山麓の「麓」が書きたくて練習したそうです。

昭和の 突然PART2

2025年04月13日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は、突然ですが、山根さんはお休み。代打の切り札、33年生まれ67才 渡辺三千彦さんのご登場。
今日は大阪関西万博開幕ということで、三波春夫さんもかけながらお送りしました。
渡辺さんは昭和45年の大阪万博、2回行ったんですって。
今週は「昭和の突然 PART2」で30分。
 
私が小1くらいの時だったと思います。自転車を買ってもらい「まだ公道で乗ってはいけない」という約束を破って乗ってしまい、藪土手に落ちたのです。 枯葉や草が有り怪我も何もなかったのですが、それを川を挟んだ幼馴染みの家で、おじさんがたまたま見ていたらしくて、「Sちゃんが道から突然消えたかと思うたら、土手を上るのがなんとも早かった」と父と話したそうでした。いけないと言われてたことをやったという後ろめたさから、あの速さが生じたのでしょう。父がその日おじさんから聞いたことを笑いながら話してくれたのでした。
 
小学5年生の4月、転校初日でした。
自己紹介の直前に廊下で待っていた母に手招きされ、突然「苗字が変わったから」と言われました。
両親が離婚して母に引き取られた私はまだ元の苗字のまま。いきなり言われても「藤」の漢字はまだ習ってないから書けませんでした。
担任の先生の機転で「事無き」を得ましたが、後々そのことでクラスの男子にいろいろ言われました。
なぐさめてくれると思った先生にも「強くなりなさい」と叱られました。この先生には6年のときも受け持ってもらいました。卒業式の日にもらった色紙は宝物です。
 
昔、近所の悪ガキと、木切れを集めて1人用の船を作ることになりました。何とか船の形を作り、仕上げの防水をするのですが、昔の道路は、コールタールが主な材料でできていて、道路のかけらを拾ってきてカンカンの中に入れて火であぶると、コールタールが取り出せました。みんなで太田川まで船を運び私が最初に乗りました。みんなが船を押し、5メートル位進んだところで…「突然」船底が抜け…、みんなが大笑いでした。
 
昭和38年7月、山口市の小学校4年の時、夏休み帳を受け取ると、裏表紙全面に「私の絵」が載っていました。それは、1年前、3年生の夏休みに「働く人」という題で山口市営バスの車庫で、バスの下にもぐって修理している人を描いたもので、担任の先生が応募して採用になったらしく、突然のことでびっくりしました。
 
23歳の時、購入したい車の値段交渉をしていました。それは“カローラレビンAE86”です。
ディーラーさんに半年通い、来週辺りに契約するつもりでいた矢先。
映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー パート1」を観ました。ラストシーンに現れた、4WDのピックアップトラックに一目惚れ。
翌日、カタログを貰いにトヨタのお店に行きました。
すると、その夜、突然、昼間対応してくれたトヨタの人がアパートに。
1時間後、契約書に印鑑を押す自分。
あれから40年、乗り継いだ車は、全て4WDです。
 
小学5年のある日、突然、TVがやってきました。
電気店の人が、屋根にアンテナを設置。
夕方、「さあ、観ていいよ」と言われ、switch on!
しばらくして、ブラウン管に映像が現れる。
某TV局の人形劇。
黒柳徹子、横山道代、左卜全、益田喜頓、南利明、由利徹、藤村有弘、楠トシエなどが声優として出演していた、「チロリン村とくるみの木」でした。
この日から、居間の箪笥の上に鎮座していたゼネラルの大きな真空管ラジオは引退してしまいました。
 
さて、次週はテーマチェンジ。渡辺さんのリクエストにお応えして「昭和の雑魚寝」で行きましょう。
渡辺さんが入社したころの泊まりロケは、先輩スタッフと雑魚寝。いびきが凄くて一睡もできなかったとか。友達の家で雑魚寝、フェリーの2等室で雑魚寝すると洗面器が置いてある、富士山山頂の宿泊は狭い所で雑魚寝etc昭和の雑魚寝の思い出・メッセージお待ちしております。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=O4tDHVGwaxI
テーマは「昭和の地下」
山根さんは、15才の時に大阪梅田の地下街に初めて降りて、一生出られないかと思ったって。
注目!動画制作している音声さんが地下道の映像を紹介してくれています!

昭和の 突然

2025年04月06日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
ご昭和ください、皆さまのおかげで番組開始14年目のシーズンを迎えられました。
感謝感謝~。
今週は「昭和の突然」で30分。
 
「昭和の突然!」で思い出すのは、
昭和59年のオールスターゲーム第3戦です。
当時、大学3年生でプールの監視員のアルバイトをしてました。
アルバイト仲間に家が新聞販売店の子がいてオールスターゲームのチケットが余ってるから急遽みんなで行こうとなりました。
しかも、大学生の悪ノリで「全員Tシャツ海パン」のまま電車に乗ってナゴヤ球場入り、試合は江川が初回から8連続三振を奪ったのが中日ファンながら記憶に残っています。
 
昭和43年、岡山市に住んでいた中学1年の時のこと。授業中、校舎4階の教室の窓から外を見ていると、突然、「日立キドカラー」の飛行船が現われ、ゆっくり、風に流されるように後ろ手の方へ行くのを見ました。そのどでかさとゆっくりさに度肝を抜かれました。
 
昭和の突然で思い出したのは、「差し込み(腹痛)」です。
今のようにコンビニなど無い時代です。
公衆トイレのある場所は限られていて、ピンチを脱出する方法は、ガソリンスタンドか、お店に入るぐらいしかありませんでした。
 
昭和のある日、カラオケのボックス箱を母が買ってきました。
私の家は、幼い頃3人の子どもを残し父が亡くなり母と祖母に育てられました。
本家のうちは、盆正月と親戚が帰省して、いつも賑やかに飲めや歌えの宴会がいつもの行事でした。カラオケ好きの母は、カラオケセットを購入。カセットテープに8トラって言うのか食パンに似たやつをぎょうさん一緒に。マイクは有線を3本。2つしか穴がないのにね。
しかも36回の月賦で。
それからは、宴会ないのに夜は、毎日カラオケしてました。時には、詩吟をやってた祖母が空いたマイクで吟詠してました。
 
島根県にいた昭和59年ぐらいの時の話です。
転職して会社を替わった次の年に、出張から下宿に戻ると、郵便受けに“赤い色の封筒2通”が届いていて、封を開けると
“税金の督促状”が届いていて、初めてのことで訳が分からず、あくる日、最寄りの役場にすっ飛んでいったことを思い出します。
当時の会社は、自分で最寄りの役場に申請に行かないといけなかったのに、出張に出てしまい、その追徴額(確か高額だった)に真っ青となり、係の人達に話をして、事なきことを得たときはホッとしました。
 
さて、次週も「昭和の突然」で行きましょう。放送を聴いていて、“ウチもあったあった”って思いついたでしょう。臨時収入、突然の別れ、突然の転校、親父が買ってくる、突然の出費etc昭和の頃の突然の出来事・思い出をお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=YNH8LQcAAFY
テーマは「昭和の親父の思い出③」
リスナーさんのお父さん、山根さんのお父さんは、シベリアで抑留体験をされたとか。

昭和の クリアランス

2025年03月30日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は年度末ということで
「メッセージ クリアランス」で30分。
番組にお寄せいただいたメッセージで読みたかったけど時間の関係でご紹介できなかったものをランダムにご紹介。
 
【2018年 昭和のコーヒー】
阿武町 RN.よこよこさん
 
私たちの時代はコーヒーに限らず、お茶以外の飲み物は珍しく、ハイカラという感じが多かったと思います。
家でコーヒーを飲むことはほとんどなく、せいぜい街に出た時に瓶入りのコーヒー牛乳を飲む程度でした。
そのころ、同級生がお見合いをしました。
お見合いの席は大阪の喫茶店。お母さんと二人で行ったそうです。その席で出されたコーヒー。ちゃんとお皿に乗ってスプーンが添えられたコーヒーなど、田舎者には珍しいものでしたが、そのお母さんがいかにも“したり顔”で「スプーンですくって飲み始めた」とか。「顔から火が出るほど恥ずかしかった」と話していたのを思いだしました。
 
【2015年 普通のおはがき】
防府市 RN.くるみとあい子のママさん
先週の放送で、山根さんが「夏休みは遊ぶように」と言われていましたが、私もそう思います。娘が小5の時の担任の先生も「夏は暑くて勉強ができないので夏休みがあるのだから宿題は出さない」と言ってらっしゃいました。私も賛成でした。
 
【2025年 昭和のおやじの思い出】
私が小学生の頃、父は、休日によく一緒に遊んでくれました。ボードゲームやトランプ、バドミントンなどをしましたが、父は常に真剣勝負。子供相手でも容赦ないのです。妹はよく父に負かされて泣いていましたが、父は絶対に手を抜きませんでした。最初に「泣くんならやらん」と言うのです。勝った父は、本当に嬉しそうで得意気だったように記憶しています。子供のような笑顔の人でした。
 
【2025年 昭和のおやじの思い出】
私が小学校の低学年のときに両親が離婚しまして、父が食事を作っていたのですが、記憶に残っているのが「グシャグシャ卵」です
卵に砂糖を入れて作ったスクランブルエッグでした。当時の私にはとても美味しく思えました。
 
【2025年 昭和のりんご】
初めてのマイカーは中古の軽だったので、二台目は新車にしようと、雑誌を買ったりパンフレットを貰ったりして、楽しい時間を過ごしました。何かに「車内にリンゴが有るとほのかに良い匂いがする」との事を知り、コンソールボックスに置いていたのを思い出しました。
 
【2025年 昭和のジュリー】
ちょうど高2~高3の頃にGSブームが起こりました。リアルタイムで「Tigers」がTVで出始めた頃から見ていました。いろいろ出てくるGSグループの中でもジュリーは最高!抜群に美しかったですね。明星や平凡を買って部屋にジュリーの顔だけがUPのポスターを貼ってうっとりと見てました。
 
さて、次週は新年度。ご昭和くださいは、14年目のシーズンを迎えます。おかげさまです。
次週4/6のテーマは「昭和の突然」で行きましょう。突然の収入、突然おやじがやってくる、好きな番組が突然最終回に、ナイショ事してる時に突然ドアが開くetc昭和の頃の突然の出来事・思い出をお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=GLLLpMYW6Wc
テーマは「昭和の親父の思い出②」
山根さんは子供のころ、徳利にサイダーを入れて「おひとつどうぞ!」ってやっていたらしい

昭和の 背番号PART2

2025年03月23日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の背番号 PART2」で30分。
 
ある日、スポーツ店で、西ドイツ代表の見知らぬ選手が誇らしげに「ワールドカップ」を掲げているポスターを目にし、「これは誰?」と店員さんに尋ねると「西ドイツが1974に優勝した時のキャプテンのベッケンバウアーという選手だよ。伝説的な選手だ!」と教えてもらいました。
サッカー雑誌で調べると背番号は「5番」。
金持ちのチームメイトの家で、ベッケンバウアーのビデオを見せてもらうと(当時はまだビデオデッキもそんなに普及してなかった)何ともエレガントなプレーをする選手で、もう一目惚れ。しかも「5番」という背番号は、サッカーにおいては競争率も低い。やはり一番人気は「10」ですからね。
その日以来、私は背番号「5」を好んで着用するようになりました。
 
昭和53年。中3の時の「郡体(熊毛郡内の体育大会)」での話。
バスケ部の試合で、キャプテンがユニホームを忘れてしまい試合放棄になるところを、無理くり体操服と陸上部から借りたゼッケンにマジックで背番号を書いて安全ピンでとめて、何とか免れたことがあります。
 
中学、高校とバレー部でした。
中2年で初めてもらった背番号はたしか、12番。
ベンチ入りは12人までです。
嬉しかったなー。
実家に保管してあった中学最後に着ていたユニフォームを引っ張り出しましたが、あの頃は細かった、今じゃとても着れません(笑)
センタープレイヤーだったので、5番なんだろうと思います。もう一人のセンターは3番。エースナンバーは1と4。セッターは2と6でした。
 
テレビの野球は、巨人、ジャイアンツの時代。巨人と言えば、長島、王。背番号は3、3、3。
私も小学校からソフトボールを始めて将来はプロ野球選手を夢みてました。はじめて背番号を3をくださいでした。当時はユニホームはみんなの使い回し。背番号3は小さい私にはあまりにも大きくてあえなく13番。少し残念でしたが、王、長島の背番号が入っててまわりからはうらやましがられました。
 
昭和の背番号。中日ファンなので7番の宇野勝さんです。宇野さんといえば珍プレーですね。
名字がアルファベットで3文字で背番号が1桁、背中の「UNO 7」がシンプルで印象深かったです。
 
昭和の背番号で思い出すのは、アメリカンフットボール漫画「フットボール鷹」の夕日野鷹です。
オフェンスライン→ランニングバック→クオーターバックとポジションごとに着用できる背番号が決まっていて65→32→12と変わっていったのが印象深いです。
この漫画がきっかけで、今でもアメリカンフットボールを見続けています。
 
昭和の背番号といえばエースナンバー18、近鉄バッファローズの太田幸司です。
高校野球で元祖アイドルといって真っ先に目に浮かぶのは原辰徳ではなく太田幸司です。
私は、まだ小学生でしたが、近所のお姉さんがたはキャーキャー言っていました。太田幸司の一粒で二度美味しいアーモンドグリコのキャラメルをよく買っていました。
 
背番号と言えば、やっぱりプロ野球ですね。子供の頃は、巨人対どこどこ、だったので、
中学生になって真っ当なタイガースファンになるまでは、巨人の選手しか覚えてなく、その中でも好きだったのが、足の早かった柴田選手でした。
柴田選手と言えば、赤手袋に背番号7ですが、僕の記憶にあるのは背番号12の柴田選手でした。
そして、野球もやってないのに12の背番号が欲しく、父に頼んで背番号の12だけを買ってもらい、
部屋の壁に画ビョウで止めて、ニヤニヤしながら見ていた記憶があります。
 
さて、次週は年度末ということでも「年度末 昭和のクリアランス」で行きす。これまでご紹介しようと思っていて時間やタイミングの問題でご紹介できなかったメッセージ・ネタを大放出いたします!
乞う、ご期待!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=wXB4j2Puqa0
テーマは「昭和の親父の思い出」
昭和ならではのキャラの濃い親父さんたちの話が出てきます!

昭和の 背番号

2025年03月16日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の背番号」で30分。
“ご昭和好きのスタッフ”から出題された背番号クイズも楽しんでいただけたでしょうか。
 
小さい時からカープファンの私的には、ミスター赤ヘルこと山本浩二さんの背番号「8」、池谷公二郎さんの背番号「11」に思い入れがあります。
小学低学年の時、当時の下松専門店会が企画したイベントに当時バリバリの現役だった背番号「8」の山本浩二さんが来られ、父親と一緒にサイン会に行った事がありました。この時に頂いたサインは今も持っています。今思えば、カープが赤ヘル旋風で悲願の初優勝をして間もない頃でしたから、さぞかし盛り上がっただろうと思います。
翌年もカープ選手を招いてのイベントがあり、再び父親と行きました。この時は背番号「11」の投手、池谷公二郎さんでした。この時のサインもまだ持っています。2年連続で地元下松に現役のカープ選手を呼ぶなんて、当時は景気が良かったんでしょうね。赤ヘル選手との古き良き思い出です。
 
昭和50年、小学6年の時に山口市、白石地区のソフトボール大会があり約15チームの町が出場して、どこもユニフォームと背番号着用でした。
僕の町は小学生が少なく2年生~6年生迄やっと9人が集まっての初出場でしたのでユニフォームもありませんでしたが、なんとかバラバラの私服で参加しました。それでも、裕福な家の子4人は、それぞれ個人の家庭で好きな野球ユニフォームを買って着て来まして、背番号は4人とも「3」番でした。
 
昭和の背番号で思い出したのは、広島カープ・長嶋選手の背番号「0」です。
それまで見たことも聞いたこともない背番号に、
初めて見た時は、「0って何?ウケ狙いなの?」と思いました。
↑↑↑
昭和53年プロ野球初の背番号「0」
 
昭和の背番号で思い出したのは、TVアニメ「侍ジャイアンツ」の主人公 番場蛮の背番号「4」です。
巨人への入団が決まり、背番号を決める回のサブタイトルは「オレの背番号は死だ!」だったと記憶します。日本人にとって不吉とされる数字「4」の意味・重みを小学生が知るキッカケでした。
因みに、ライバルの阪神のウルフの背番号は、欧米人にとって不吉な「13」でした。
 
私が、初めてもらった背番号は、ソフトボール少年団での『13』でした。準レギュラー級でしたから、一桁はなし。希望者のいなかった13を選びました。
なんで希望者がいないんだろう?と思ってましたが、全てはジェイソンの『13日の金曜日』のせいでした。私は知らなかったです。なので、背番号13のプロ野球選手は応援してしまいます。ジャイアンツは新外国人選手のキャベッジ選手、タイガースは岩崎投手ですねぇ。
カープ戦以外で活躍してほしいです。
 
スポーツに疎い私の背番号と言えば、10番・11番です。昭和59年、高校2年生の時、木曜の夕方5時半からアニメ「キャプテン翼」が放送されていました。最初は何となく観てたのですが 「翼くん!岬くん!」とか「ボールは友達!」など気恥ずかしくなってしまうセリフを堂々と言ってのける場面の数々にハマッてしまい、クラスメートを一人巻き込んで盛り上がっていました。その時、翼くんの10番はサッカーのエースナンバーであり、ゴールデンコンビの岬くんの11番とセットで覚えました。
 
さて、次週も「昭和の背番号」で行きましょう。「3」への憧れ、野球に限らず、サッカー、バレーボール、バスケetc昭和の頃の背番号にまつわるエピソード・メッセージをお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=W_9rCQn0s48
テーマは「昭和の毛糸②」ですが、
その前に山根さんがキャベツお代わり自由に熱弁しています!

昭和の 地下PART2

2025年03月09日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の地下PART2」で30分。
 
昭和55年、大学入試のため名古屋に行き、そこで市内中心部、栄の地下街に入ってびっくり。沢山の店が建ち並び地下鉄の駅があり地下鉄が容赦無く走っていました。
そして金融機関、デパート、その他の建物に、街の人は、地下から出入りして地上に上がったり、考えられない行動していらっしゃいました。
 
岡山の地下には驚きました。一つの街がありました。地下に入ると、もうどこを歩いているのか分からなくなります。階段を上がった先がどこなのかまったく分かりません。
夫は単に私が方向音痴だからといいます
 
昭和47年に宇部から短大受験の為に、生まれて初めての一人旅で兵庫県西宮市にある大学へ向かいました。当時の親は受験に付いて来ることはありません。新幹線も全線開通していませんでした。父との約束は「駅員さん以外の人とは喋らない」でした。国鉄・三ノ宮駅を降りて駅員さんに、阪神電車の乗り場を尋ねると「そこ」と目の前を指さしておしまい。「そこ」に行ってみても駅なんてありません。不安で泣きそうだったけど、取り敢えずバス停に並んでいたら“田舎娘の様子”に気付くいてくれたおばさんが行先を聞いてくれて教えてくれたのは、今、立っている所の「そごうデパートの地下」。ビックリしたというものではありません。デパートの地下を電車が走ってるんだなんて。
 
昭和40年代前半、新宿西口の再開発がされる前の話で淀橋浄水場があったころです。新宿コマ劇場の地下にアイスケ-ト場があり、会社の同僚に誘われ通いました。『手すり磨き』から始まり、バックで滑ってのナンパまで、又、終了後は「ションベン横丁』で安酒でダベリ、始発で三鷹の独身寮に帰り、少し休憩後、会社に出勤していました。
 
宇部の中心地に地下のお店「ピーター」がありました。社会人になったばかりで、年上のお兄さん、お姉さんに連れてきてもらっていました。
地下、お酒、踊り、は未知の世界でドキドキものでした。音楽は忘れましたが当時の流行りの踊りだったのでしょうか、皆で手を繋いで横に並び、前に行ったり後ろに下がったりの踊りでした。
 
小学校の修学旅行で、山口と九州をつなぐ、海底の地下トンネル、関門トンネルを、生まれて初めて歩いて渡りました。ちょっと薄暗いトンネルの中をみんなで歩き、途中、山口と九州の境界線がありました、海底の地下を歩いとるんだ、すごいと、思いながら歩きました。
 
昔の徳山駅には地下一階がありましたよね。そこにあった軽食屋さんのお好み焼きと焼きそばが美味しかったです。お昼時には待ちがあったですね。
高校生の頃によく利用しました。徳山駅のいまでいう北側から海側に行くのは地下道でしたから 懐かしいですね。
 
さて、次週3/16のテーマは「昭和の背番号」で行きましょう。昭和の頃、22と言えば田淵!24と言えば中畑でしょう。ちなみに、高橋少年が少年野球で初めてもらった背番号は「45」。ちょうどそのころ、西武ライオンズのテリーがつけていたなぁ。野球に限らず、サッカー、バレーボール、バスケetc昭和の頃の背番号にまつわるエピソード・メッセージをお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=8Dj5wO4Fum0
テーマは「昭和の毛糸」
山根さんのカウチンセーターは高価!モノが良いです!ご覧あれ!

昭和の 地下

2025年03月02日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の地下」で30分。
 
高校の修学旅行で東京に行きましたが、自由行動は「日本橋三越デパートの店内のみ」でした。
解散する前に先生が
「いいですか?絶対に地下に降りてはいけませんよ!地下は地下鉄につながってるから、二度と戻って来られなくなりますよ!」と警告してたのを思い出します。
 
昭和63年、島根県から田布施町に帰ってきた無職の時の話。
就職活動中で、結構自由な時間があり、当時、近隣の"レンタルビデオ店"で、4~5本借りた中の一つが『地下室のメロディー』で、アランドロン、ジャンギャバンの姿がよかったのと、最後のプールの中から札束がきれいに浮かんでくる様子があったと記憶しております。
 
山根さんが先週の最後に言われてた地下道の写真を送ります。松神町側から撮りました。1966年の10月にできたみたいです。
下松で地下で思い出すのが、喫茶店の「ちぐさ」に地下があったのを覚えてます。
 
下松育ちとしては下松駅東側の狭い地下道がまず思い浮かんだのですが、山根さんに先を越されてしまいました。(笑)
あと下松で地下と言えば、昔、下松にあった下松ショッピングセンターのトイレが地下にありましたね。店内の真ん中付近の一階から階段を降りる感じでトイレが設置されていたと記憶しています。少し薄暗くて、子供の頃にここのトイレに行くのが洞窟に入るような感じで少し怖かったです。
このトイレの入り口付近にソフトクリームやアメリカンドッグなどを売っているお店がありました。
 
『昭和の地下』といって思い出すのは岩国駅周辺にあったスーパーマーケットです。
地上6階まで売り場があり、地下は食料品売り場でした。買い物を利用されるお客さまは自転車かバス、電車を使って来店されていました。
私はレジ部員の下っ端でしたから、飲食経営のお得意さんが食材を段ボールに入れて何箱も持てないくらい買い物された時は、地下から1階の出口まで持って行く係をよくやらされていたものです。
 
昭和の地下と言えば、デパ地下の量り売りお菓子回転台。子どもの頃、家に帰る前にデパ地下で量り売りのお菓子を買ってもらってました。
お菓子が入ってる棚がゆっくり回って面白かった。
オブラートの付いたゼリー菓子とかカゴに入れてた思い出。
今でも量り売りの回転台ってあるんですかね。
 
昭和40年代。
日曜日に、家族で下関のデパートへ。
なぜか私、子供用の背広を着せられて。
レストランで、旗が立った【お子様ランチ】を食べたあと、地下の食品売り場へ。
駄菓子がグルグル回っていてグラムいくらで精算でした。ゴムに包まれた丸い羊羹を買ってもらい、帰宅してから、爪楊枝で刺すと、つるんと出て来て、パクり。デパートの地下はワクワクでした。
 
昭和の地下と言って思いつくのは、家の床下に有った穴です。
床の下に、タタミ2枚分ぐらいの広さの穴が掘ってありました。穴には、モミガラがいっぱい入れてあったので、その深さは分かりませんでしたが、おそらく50cmぐらいの深さだったと思います。
穴の中のモミガラの中には、サツマイモがたくさん入れてありました。床下の穴は、サツマイモを保管する為の穴でした。
 
さて、次週3/9もは「昭和の地下」で行きましょう。今週もかなりメッセージお寄せいただきましたが、これを聴いて思い出したエピソードもあるでしょう。駅ビルの地下、地下トンネル、大都会の地下街で迷子になるetc昭和の頃の地下の思い出・メッセージをお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=pmDnaoanORA
テーマは「昭和の林檎②」
「ガラは悪いけど育ちはいいんですよ」by山根由紀夫。
さらに、この度も、山田&梅崎同期コンビが登場!みかんの網で遊んでくれています~。ぜひ!

昭和の 親父の思い出PART3

2025年02月23日

昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の親父の思い出 PART3」で30分。
 
私が社会人になり仕事から帰ると、私の帰りを待っていたのは食事前の父でした。姉2人は結婚して家を出てて兄は県外に就職、2人の妹は高校生と中学生。毎日晩酌する父は、唯一、お酒が呑める私の帰りを待ってたのです。私は大して呑めませんが、父からすれば父の話し相手晩酌相手?にはなっていたのだと思います。私が嫁いで行くとき、前日に、「辛くなったら直ぐに帰って来いよ」と言った父の言葉が今でも心に残っています。
 
高橋さんが「何とかの一つ覚え」と言って、お父さんとのステーキの思い出を語られたのを聞いて、私も父の「一つ覚え」を思い出しました。
タバコはエコー、服はタバコが入れられるように胸ポケットがついたもの、髪型は七三分け、誕生日にはカレーライス、チョコレートはホワイトチョコレート、すべて絶対の一つ覚えでした。こだわりの強い頑固な人でしたが、それであれば機嫌のよい分かりやすい人でもありました。
 
自分の親父は自分が生まれる前にタンカーの衝突と言う海難事故で亡くなりました。
ですから、親父の顔は仏壇に飾ってある遺影でしか知りません。
でも、母親が話してくれる親父は、「とてもおとなしくて実直な人だった」と、いつも嬉しそうに話してました。
だから、自分の中では理想の男性像として、今でも親父の様になりたい気持ちがあります。
 
私の父は、今思えば、当時は週休1日でした。
そんな中、月1回くらいでしたか、徳山に家族でクルマに乗って出かけていたのを思い出します。当時、188号線は大渋滞で、かなり時間が掛かった記憶があります。
週休1日だったから日曜日はゆっくり休みたいと思っていたのかもしれませんが、よく遊びにつれていってくれてたなあと。もう亡くなって今年で6年経ちますが今頃になって感謝です。
 
私の父は昭和3年生まれ。酔っぱらうと、昔話が始まりました。
父は長男ではなかったので、旧制中学4年生(今の高1)の時に兵隊に志願した事。
入隊した部隊の射撃訓練で1位になり、即、満州に配属され、ロシアの捕虜になった事。
極寒のシベリアで、過酷な重労働に耐えて、草の根まで食べた事。
栄養失調で仲間が次々と倒れた事。
ロシア語を覚えてロシア兵と仲良くなり第一便で帰国出来た事。
舞鶴に着いた時に国から貰った手当で、1番安いタバコを買った事。
いきなり帰宅すると、家族がびっくりするので、電報を打とうとしたら、タバコを買った残りの手当で、電報代が足りなくて着信払いにした事。等々・・・
当時は父の昔話がとても嫌でしたが、父が他界した今は、もっと色々聞いておけば良かったと後悔しています。
 
煮魚を食べるのが上手な父でした。
箸だけで身を残さず、食べ終わった皿がきれいなこと。自分は箸以外に手を使えば、身を残さず食べれますが、食べ終わった皿はきれいとはいえませんね。
 
山根さん高橋さんも「とぉちゃん かぁちゃん…」とおっしゃってましたが、  
私も「とぉちゃん かぁちゃん」と呼んでいました。
結婚式の前日、両親に「お父さんお母さん、お世話になりました」と挨拶。
その時、初めて「お父さん」と呼んで、私にとっての 一大イベント。父は「そねぇにかしこまらんでも エエぃや」と言いながらも、私以上に照れてたようでした。
 
さて、次週3/2のテーマは「昭和の地下」で行きましょう。地下街、デパ地下、地下室、地下倉庫、トンネル、地下横断歩道etc昭和の頃の地下の思い出・メッセージをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=7x0Ts644JTU
テーマは「昭和の林檎」
山根さんのお母さんは、蜜が入ったリンゴが手に入ると「蜜よ~」と自慢してたとか。


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