ご昭和ください ブログ
昭和の 背番号
2025年03月16日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の背番号」で30分。
“ご昭和好きのスタッフ”から出題された背番号クイズも楽しんでいただけたでしょうか。
小さい時からカープファンの私的には、ミスター赤ヘルこと山本浩二さんの背番号「8」、池谷公二郎さんの背番号「11」に思い入れがあります。
小学低学年の時、当時の下松専門店会が企画したイベントに当時バリバリの現役だった背番号「8」の山本浩二さんが来られ、父親と一緒にサイン会に行った事がありました。この時に頂いたサインは今も持っています。今思えば、カープが赤ヘル旋風で悲願の初優勝をして間もない頃でしたから、さぞかし盛り上がっただろうと思います。
翌年もカープ選手を招いてのイベントがあり、再び父親と行きました。この時は背番号「11」の投手、池谷公二郎さんでした。この時のサインもまだ持っています。2年連続で地元下松に現役のカープ選手を呼ぶなんて、当時は景気が良かったんでしょうね。赤ヘル選手との古き良き思い出です。
昭和50年、小学6年の時に山口市、白石地区のソフトボール大会があり約15チームの町が出場して、どこもユニフォームと背番号着用でした。
僕の町は小学生が少なく2年生~6年生迄やっと9人が集まっての初出場でしたのでユニフォームもありませんでしたが、なんとかバラバラの私服で参加しました。それでも、裕福な家の子4人は、それぞれ個人の家庭で好きな野球ユニフォームを買って着て来まして、背番号は4人とも「3」番でした。
昭和の背番号で思い出したのは、広島カープ・長嶋選手の背番号「0」です。
それまで見たことも聞いたこともない背番号に、
初めて見た時は、「0って何?ウケ狙いなの?」と思いました。
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昭和53年プロ野球初の背番号「0」
昭和の背番号で思い出したのは、TVアニメ「侍ジャイアンツ」の主人公 番場蛮の背番号「4」です。
巨人への入団が決まり、背番号を決める回のサブタイトルは「オレの背番号は死だ!」だったと記憶します。日本人にとって不吉とされる数字「4」の意味・重みを小学生が知るキッカケでした。
因みに、ライバルの阪神のウルフの背番号は、欧米人にとって不吉な「13」でした。
私が、初めてもらった背番号は、ソフトボール少年団での『13』でした。準レギュラー級でしたから、一桁はなし。希望者のいなかった13を選びました。
なんで希望者がいないんだろう?と思ってましたが、全てはジェイソンの『13日の金曜日』のせいでした。私は知らなかったです。なので、背番号13のプロ野球選手は応援してしまいます。ジャイアンツは新外国人選手のキャベッジ選手、タイガースは岩崎投手ですねぇ。
カープ戦以外で活躍してほしいです。
スポーツに疎い私の背番号と言えば、10番・11番です。昭和59年、高校2年生の時、木曜の夕方5時半からアニメ「キャプテン翼」が放送されていました。最初は何となく観てたのですが 「翼くん!岬くん!」とか「ボールは友達!」など気恥ずかしくなってしまうセリフを堂々と言ってのける場面の数々にハマッてしまい、クラスメートを一人巻き込んで盛り上がっていました。その時、翼くんの10番はサッカーのエースナンバーであり、ゴールデンコンビの岬くんの11番とセットで覚えました。
さて、次週も「昭和の背番号」で行きましょう。「3」への憧れ、野球に限らず、サッカー、バレーボール、バスケetc昭和の頃の背番号にまつわるエピソード・メッセージをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=W_9rCQn0s48
テーマは「昭和の毛糸②」ですが、
その前に山根さんがキャベツお代わり自由に熱弁しています!
昭和の 地下PART2
2025年03月09日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の地下PART2」で30分。
昭和55年、大学入試のため名古屋に行き、そこで市内中心部、栄の地下街に入ってびっくり。沢山の店が建ち並び地下鉄の駅があり地下鉄が容赦無く走っていました。
そして金融機関、デパート、その他の建物に、街の人は、地下から出入りして地上に上がったり、考えられない行動していらっしゃいました。
岡山の地下には驚きました。一つの街がありました。地下に入ると、もうどこを歩いているのか分からなくなります。階段を上がった先がどこなのかまったく分かりません。
夫は単に私が方向音痴だからといいます
昭和47年に宇部から短大受験の為に、生まれて初めての一人旅で兵庫県西宮市にある大学へ向かいました。当時の親は受験に付いて来ることはありません。新幹線も全線開通していませんでした。父との約束は「駅員さん以外の人とは喋らない」でした。国鉄・三ノ宮駅を降りて駅員さんに、阪神電車の乗り場を尋ねると「そこ」と目の前を指さしておしまい。「そこ」に行ってみても駅なんてありません。不安で泣きそうだったけど、取り敢えずバス停に並んでいたら“田舎娘の様子”に気付くいてくれたおばさんが行先を聞いてくれて教えてくれたのは、今、立っている所の「そごうデパートの地下」。ビックリしたというものではありません。デパートの地下を電車が走ってるんだなんて。
昭和40年代前半、新宿西口の再開発がされる前の話で淀橋浄水場があったころです。新宿コマ劇場の地下にアイスケ-ト場があり、会社の同僚に誘われ通いました。『手すり磨き』から始まり、バックで滑ってのナンパまで、又、終了後は「ションベン横丁』で安酒でダベリ、始発で三鷹の独身寮に帰り、少し休憩後、会社に出勤していました。
宇部の中心地に地下のお店「ピーター」がありました。社会人になったばかりで、年上のお兄さん、お姉さんに連れてきてもらっていました。
地下、お酒、踊り、は未知の世界でドキドキものでした。音楽は忘れましたが当時の流行りの踊りだったのでしょうか、皆で手を繋いで横に並び、前に行ったり後ろに下がったりの踊りでした。
小学校の修学旅行で、山口と九州をつなぐ、海底の地下トンネル、関門トンネルを、生まれて初めて歩いて渡りました。ちょっと薄暗いトンネルの中をみんなで歩き、途中、山口と九州の境界線がありました、海底の地下を歩いとるんだ、すごいと、思いながら歩きました。
昔の徳山駅には地下一階がありましたよね。そこにあった軽食屋さんのお好み焼きと焼きそばが美味しかったです。お昼時には待ちがあったですね。
高校生の頃によく利用しました。徳山駅のいまでいう北側から海側に行くのは地下道でしたから 懐かしいですね。
さて、次週3/16のテーマは「昭和の背番号」で行きましょう。昭和の頃、22と言えば田淵!24と言えば中畑でしょう。ちなみに、高橋少年が少年野球で初めてもらった背番号は「45」。ちょうどそのころ、西武ライオンズのテリーがつけていたなぁ。野球に限らず、サッカー、バレーボール、バスケetc昭和の頃の背番号にまつわるエピソード・メッセージをお待ちしています!
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テーマは「昭和の毛糸」
山根さんのカウチンセーターは高価!モノが良いです!ご覧あれ!
昭和の 地下
2025年03月02日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の地下」で30分。
高校の修学旅行で東京に行きましたが、自由行動は「日本橋三越デパートの店内のみ」でした。
解散する前に先生が
「いいですか?絶対に地下に降りてはいけませんよ!地下は地下鉄につながってるから、二度と戻って来られなくなりますよ!」と警告してたのを思い出します。
昭和63年、島根県から田布施町に帰ってきた無職の時の話。
就職活動中で、結構自由な時間があり、当時、近隣の"レンタルビデオ店"で、4~5本借りた中の一つが『地下室のメロディー』で、アランドロン、ジャンギャバンの姿がよかったのと、最後のプールの中から札束がきれいに浮かんでくる様子があったと記憶しております。
山根さんが先週の最後に言われてた地下道の写真を送ります。松神町側から撮りました。1966年の10月にできたみたいです。
下松で地下で思い出すのが、喫茶店の「ちぐさ」に地下があったのを覚えてます。
下松育ちとしては下松駅東側の狭い地下道がまず思い浮かんだのですが、山根さんに先を越されてしまいました。(笑)
あと下松で地下と言えば、昔、下松にあった下松ショッピングセンターのトイレが地下にありましたね。店内の真ん中付近の一階から階段を降りる感じでトイレが設置されていたと記憶しています。少し薄暗くて、子供の頃にここのトイレに行くのが洞窟に入るような感じで少し怖かったです。
このトイレの入り口付近にソフトクリームやアメリカンドッグなどを売っているお店がありました。
『昭和の地下』といって思い出すのは岩国駅周辺にあったスーパーマーケットです。
地上6階まで売り場があり、地下は食料品売り場でした。買い物を利用されるお客さまは自転車かバス、電車を使って来店されていました。
私はレジ部員の下っ端でしたから、飲食経営のお得意さんが食材を段ボールに入れて何箱も持てないくらい買い物された時は、地下から1階の出口まで持って行く係をよくやらされていたものです。
昭和の地下と言えば、デパ地下の量り売りお菓子回転台。子どもの頃、家に帰る前にデパ地下で量り売りのお菓子を買ってもらってました。
お菓子が入ってる棚がゆっくり回って面白かった。
オブラートの付いたゼリー菓子とかカゴに入れてた思い出。
今でも量り売りの回転台ってあるんですかね。
昭和40年代。
日曜日に、家族で下関のデパートへ。
なぜか私、子供用の背広を着せられて。
レストランで、旗が立った【お子様ランチ】を食べたあと、地下の食品売り場へ。
駄菓子がグルグル回っていてグラムいくらで精算でした。ゴムに包まれた丸い羊羹を買ってもらい、帰宅してから、爪楊枝で刺すと、つるんと出て来て、パクり。デパートの地下はワクワクでした。
昭和の地下と言って思いつくのは、家の床下に有った穴です。
床の下に、タタミ2枚分ぐらいの広さの穴が掘ってありました。穴には、モミガラがいっぱい入れてあったので、その深さは分かりませんでしたが、おそらく50cmぐらいの深さだったと思います。
穴の中のモミガラの中には、サツマイモがたくさん入れてありました。床下の穴は、サツマイモを保管する為の穴でした。
さて、次週3/9もは「昭和の地下」で行きましょう。今週もかなりメッセージお寄せいただきましたが、これを聴いて思い出したエピソードもあるでしょう。駅ビルの地下、地下トンネル、大都会の地下街で迷子になるetc昭和の頃の地下の思い出・メッセージをお待ちしています!
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テーマは「昭和の林檎②」
「ガラは悪いけど育ちはいいんですよ」by山根由紀夫。
さらに、この度も、山田&梅崎同期コンビが登場!みかんの網で遊んでくれています~。ぜひ!
昭和の 親父の思い出PART3
2025年02月23日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の親父の思い出 PART3」で30分。
私が社会人になり仕事から帰ると、私の帰りを待っていたのは食事前の父でした。姉2人は結婚して家を出てて兄は県外に就職、2人の妹は高校生と中学生。毎日晩酌する父は、唯一、お酒が呑める私の帰りを待ってたのです。私は大して呑めませんが、父からすれば父の話し相手晩酌相手?にはなっていたのだと思います。私が嫁いで行くとき、前日に、「辛くなったら直ぐに帰って来いよ」と言った父の言葉が今でも心に残っています。
高橋さんが「何とかの一つ覚え」と言って、お父さんとのステーキの思い出を語られたのを聞いて、私も父の「一つ覚え」を思い出しました。
タバコはエコー、服はタバコが入れられるように胸ポケットがついたもの、髪型は七三分け、誕生日にはカレーライス、チョコレートはホワイトチョコレート、すべて絶対の一つ覚えでした。こだわりの強い頑固な人でしたが、それであれば機嫌のよい分かりやすい人でもありました。
自分の親父は自分が生まれる前にタンカーの衝突と言う海難事故で亡くなりました。
ですから、親父の顔は仏壇に飾ってある遺影でしか知りません。
でも、母親が話してくれる親父は、「とてもおとなしくて実直な人だった」と、いつも嬉しそうに話してました。
だから、自分の中では理想の男性像として、今でも親父の様になりたい気持ちがあります。
私の父は、今思えば、当時は週休1日でした。
そんな中、月1回くらいでしたか、徳山に家族でクルマに乗って出かけていたのを思い出します。当時、188号線は大渋滞で、かなり時間が掛かった記憶があります。
週休1日だったから日曜日はゆっくり休みたいと思っていたのかもしれませんが、よく遊びにつれていってくれてたなあと。もう亡くなって今年で6年経ちますが今頃になって感謝です。
私の父は昭和3年生まれ。酔っぱらうと、昔話が始まりました。
父は長男ではなかったので、旧制中学4年生(今の高1)の時に兵隊に志願した事。
入隊した部隊の射撃訓練で1位になり、即、満州に配属され、ロシアの捕虜になった事。
極寒のシベリアで、過酷な重労働に耐えて、草の根まで食べた事。
栄養失調で仲間が次々と倒れた事。
ロシア語を覚えてロシア兵と仲良くなり第一便で帰国出来た事。
舞鶴に着いた時に国から貰った手当で、1番安いタバコを買った事。
いきなり帰宅すると、家族がびっくりするので、電報を打とうとしたら、タバコを買った残りの手当で、電報代が足りなくて着信払いにした事。等々・・・
当時は父の昔話がとても嫌でしたが、父が他界した今は、もっと色々聞いておけば良かったと後悔しています。
煮魚を食べるのが上手な父でした。
箸だけで身を残さず、食べ終わった皿がきれいなこと。自分は箸以外に手を使えば、身を残さず食べれますが、食べ終わった皿はきれいとはいえませんね。
山根さん高橋さんも「とぉちゃん かぁちゃん…」とおっしゃってましたが、
私も「とぉちゃん かぁちゃん」と呼んでいました。
結婚式の前日、両親に「お父さんお母さん、お世話になりました」と挨拶。
その時、初めて「お父さん」と呼んで、私にとっての 一大イベント。父は「そねぇにかしこまらんでも エエぃや」と言いながらも、私以上に照れてたようでした。
さて、次週3/2のテーマは「昭和の地下」で行きましょう。地下街、デパ地下、地下室、地下倉庫、トンネル、地下横断歩道etc昭和の頃の地下の思い出・メッセージをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=7x0Ts644JTU
テーマは「昭和の林檎」
山根さんのお母さんは、蜜が入ったリンゴが手に入ると「蜜よ~」と自慢してたとか。
昭和の 親父の思い出PART2
2025年02月16日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の親父の思い出 PART2」で30分。
妻の父の話です。
8ミリの撮影が趣味で、行事や旅行の動画が残っています。
自分には子供の頃の動画は残っていませんが、
59歳の妻には残っていて羨ましいです。
そんな8ミリ好きの義理のお父さんですが、たまに本人も写っています。
そのポーズが日活の映画スターのように、ちょっとした高さのものに足を乗せて、片手は腰、もう片手は膝って感じでした。
「波止場のポーズ」って名付けられてるんですね…
短気で、寡黙な山師(林業)だった親父の楽しみは、「プロレス」観戦。
テレビ中継の日は、テレビの前に陣取り、私に"あ~だ こうだ"という事が唯一楽しみにしていて、仕事の寄り合いが入っても無視する強者でした。
ただ、生中継で、「最後までお伝え出来ません!」のアナウンスがあると、決まって。
『つまらん!! はぁ寝るぞ!!』とプリプリ。
"裸足の豊登"のドロップキックは世界一。と豪語していた父ももうすぐ命日なので、プロレス談義をしてこようと思います。
チャンネル権は父にあり、だいたい巨人戦とニュース。毎日晩酌するので、晩ごはんには必ずお刺身。車検の時に新車に買い替える頻度高め。
新しい家電が来ると、使用開始までの商品説明が長い。親父より、昭和のお父さんって感じの優しめではないかなと思います。
自分は、子供の頃は、「父ちゃん」でした。
高校生になり、父ちゃんはかっこ悪いと思い、「親父」と呼ぶようにしました。
我が家では、一番背が高いのが自分、妹、お袋、そして一番背が低いのは親父でした。
そんな親父から最後に怒られたのは、高校生の時。
なんで怒られたかは、覚えてない。
立っていた状態で怒られた。
そう、親父は、上を向いて怒る。
自分は、上から下を向いて怒られる。
すごい違和感を感じました。
たぶん、親父もそう思ったんだろうと思います。
それから、親父は、怒らなくなりました。
昭和の末期に夫とケンカした私は、実家に帰って両親に夫の悪口を言いまくりました。
それを聞いた母は怒って私と一緒に夫の悪口を言ってましたが、無口な父は何も言いませんでした。
鬱憤を晴らしてスッキリした私は家に帰ることにしましたが、
父が珍しく自転車のかごに私のカバンを乗せて、歩いて私を駅まで送ってくれました。
正直、無口な父と歩くのは間が持てなくて、送ってくれなくてもいいのにと思ったのですが、
駅に着いた時、父が「お前もいろいろ大変だけどしっかりやれ」と言ってくれて、父が励ましてくれたのは初めてだったので、胸がじ~んとして、
これからは親に心配をかけないように、夫の悪口を親に言うのはやめようと思いました。
私の親父は、まあ、あんまり喋らない父親でした。
なので、日々の出来事や相談事を話すのは、もっぱら母親。進学や就職の相談も母親で、答えてくれるのも母親でした。
だから、ウチはカカア天下だ!なんて思ってました。
が、親父の葬式の後に、そんなことを話すと、母親は、『なに言ってんの!ぜんぶお父さんに報告して、全部、お父さんが決めていたのよ!』と言われました。
知りませんでした。
無口な親父に、それを支えるオカン。いかにも、昭和の夫婦って感じです。もっと親父と話がしたかったなぁ。
さて、次週も「昭和の親父との思い出」で行きましょう。久々の3週連続テーマ。でも、まだまだご紹介しきれていない!短気、こだわりが強い、涙もろい、ナイターが好き、赤提灯が好き、人気者だったetcまだまだ、みなさんの親父の思い出をお待ちしています!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=d8ZTNNK11So
今回は「昭和の沢田研二」
年末年始、2週連続でジュリーの特集でした。
おもろかった。ぜひ、ご覧ください~。
昭和の 親父の思い出
2025年02月09日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の親父の思い出」で30分。
昭和の親父で思い出すのは、酔って帰った時に仕出しの折り詰めを持ち帰ってくれたことです。
酒好きだけど、自由になるお金がなかった親父は、地区の寄り合いや冠婚葬祭に行った時は、ここぞとばかりに酒ばかり飲んで、出された料理には手をつけず、そのまま家に持ち帰ってくれました。当時の子どもには、エビフライはたいへんなご馳走だったと記憶しています。
昭和の親父との思い出、父親は野球と酒好きでした。高校時代から軟式野球をしていて勤め先でもやっていました。
だから野球中心の生活でした。
昔は野球中継のテレビは夜7時からだったので、それまではラジオ中継を聞きテレビ中継が終わるとまたラジオ中継を聞いていました。
もう一つの酒好きは、まずビールそれから日本酒そして最後にウイスキーのフルコースを毎日でした。何と言っても4リットルのダルマウイスキーが2週間でなくなっていました。
私の父は歯でビールの栓を抜けるのが自慢でした。社宅に住んでいた頃はいつも同僚がお酒を持って集まり、飲んで騒いで笑っていたことを思い出します。酔いが回ると父が栓抜きを使わず歯で開けるのです。まだ幼かったのですが、「すごいなあ!」と覚えています。
当時父は30前後だったと思います。
子供の頃、月1ぐらいの割合で、父が街へ連れて行ってくれるのが楽しみでした。
午前中は美術館へ行き、お昼は蕎麦屋で天ざる。
午後は弘前公園でボートに乗り、喫茶店でケーキを食べて、本屋で好きな本を1冊買ってもらうのが定番のコースでした。
今考えると、あんまり子供が喜ぶようなコースではなかったと思うのですが、もしかすると父は、私にデートコースの手ほどきをしていたのかもしれません。
父はマージャンが好きで3部屋しか無い市営住宅住まいの我が家に夕方から友達を連れてきて徹夜マージャンをよくしていました。
一晩中、パイを混ぜる騒音と興奮してあげる大声とタバコの煙の中で寝たものです。
母は家でマージャンがある度に片手で食べられるように夜食のお握りや串に刺したようなオカズを作って出していました。時々、「たまにはヨソの家でやったら?」と愚痴を言っていました。
父は生まれも育ちも大阪で、何はともあれ笑いを取るのが信条。
地区の集会所で有った演芸会に出る時、「お父さんかお母さんのどっちが好き?」と聞かれたら、お母さんと答えるよう、お父さんに言われました。
舞台に上がると聞かれたので、言われたように「お母さん」と答えたら、お父さんが横から腕を引っ張るので何かと見ると、五十円玉を渡してくれ、思わず「お父さんです」と言うと笑いが起こりました。
私が子供の頃、うちの父はカラオケが大好きで、よくカセットデッキでテープに録音していました。当時のカセットテープには細川たかしさんの「こころ残り」「私馬鹿よねー。おばかさんよねー。後ろ指、後ろ指指されてもー」父の歌声と一緒に、当時の私の声も残っていて「パパバカ。パパバカバ」っと言っていました。
さて、次週も「昭和の親父との思い出」で行きましょう。お酒が好き、家に部下を連れてくる、祭り好き、ゴルフ・釣りで家にいない、涙もろい、一番風呂にこだわるetcまだまだ、みなさんの親父の思い出をお待ちしています!
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https://www.youtube.com/watch?v=mKO1x_rcSBk
今回は「昭和の狭い」
ぜひ、ご覧ください~。
昭和の 毛糸PART2
2025年02月02日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の毛糸 PART2」で30分。
うちの親父は昭和41年、山口市で手芸店を始め昭和49年に少し商売替えするまで「手芸用品販売と手芸教室」をやっていました。
もちろん毛糸の販売と手編み教室もあり、店内は色んな色の毛糸がありました。
そんな僕の小学時代のあだ名は「毛糸屋」でした。
家に来ていた手編み教室の先生が、練習がてら、僕のセーターや毛糸のパンツを作っていましたが、あまり好きではなく、ヒーロー物のトレーナーが着たかったです。
小学生の頃、父親とゴム動力の飛行機をよく作って小学校の運動場で飛ばしていました。遠くまで飛んでいくと2階建ての学校の屋根に引っかかるので、父親が毛糸でソフトボール位の玉を作りその先に毛糸をくくりつけて屋根に投げて引っ掛けて落としていました。私は、「右・左」と位置を指示する係でした。
私の家は狭い都営住宅で、父、母、私、2歳年下の妹の4人で暮らしていました。
昭和40年前後でしょうか、我が家には編み機があり、母が「ガーガー」と音を立てて編み物をしていました。編み機のそばにはたくさんの毛糸がありました。別に仕事ではなくて、趣味だったようです。
昭和53年3月、小学校の卒業式で着た服は母親が編み機を使って編んだ「真っ赤」なセーター。目立ちましたね。家族にカープファンがいるわけでもないのに、卒業式になぜ「真っ赤」なセーターだったのか、今でも都営住宅に住んでいる母に聞いてみようと思います。
小学生の頃、母が小さめのキューピー人形に毛糸で、帽子やワンピースを作って着せてました。売りに出すんかなぁくらい、何体も。今も実家に眠ってるであろうキューピー人形。かわいかったなぁ。
私が小さな時分は、私用の毛糸のパンツを母が編んでいました。何だか格好悪いので私は嫌だったのですが、身体が冷えるからと幼稚園に行く時などに無理矢理に穿かされていました。毛糸のパンツ、今思い出しても何かカッコ悪いなって思います。お母さんごめんなさい!!
昭和の毛糸といえば毛糸のパンツです。下着の上に穿く防寒着です。当時は、女子のほとんどが小学一年生くらいまでは穿いていたと思います。
縞々やカラフルでした。穿かなくなったきっかけは男子からの「毛糸のパンツ穿いてらぁ!」のからかいだったような気がしています。
当時は傷んだセーターなどをほどき子供用のセーターやベストに編みなおしていました。その時余った毛糸を合わせて編んだのが毛糸のパンツでした。自分で穿くというよりも親に「寒いから穿きなさい」と言われていた記憶があります。
昭和の時代、子供の衣服は殆どお下がりでした。兄が着て私の物になった頃にはかなり傷んでおり、毛玉が出来たり肘が薄くなったりするので、母が、毛糸を解いて編みかえてくれました。セーターの毛糸を解くと、糸がラーメンの縮れ麺のようにチリチリになるので、沸騰して湯気の出ているヤカンの注ぎ口に縮れた糸を通して伸ばしてから編んでくれました。糸が足らなくなるので袖は違う色になったりしました。今は、編み替えるなんて、まずしないですね。
さて、次週は、「昭和の親父との思い出」で行きましょう。頑固、一升瓶がよく似あう、将棋が好き、おが屑の匂いがする、手にあかぎれ、相撲と民謡とマグロの赤身が好きetc高橋少年の親父のことです。
皆さんからも、昭和の親父との思い出・エピソードをお待ちしております!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=5K6gc71Otbg
今回は「昭和の街に出るPART2」
ぜひ、ご覧ください~。
昭和の 毛糸
2025年01月26日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和の毛糸」で30分。
幼稚園に通っていた頃、母親が手編みで毛糸のセーターを編んでくれました。有り合わせの毛糸で編んでくれたので、いろんな色で組み合わせて、出来た、セーターでした。そのセーターを着て友達と遊んでいると、毛糸が、何かに引っかかり、ちょっとほつれてしまいました、ほつれた毛糸を面白がって、友達が引っ張り、くるくるくるくる回って遊びました。気がついたらセーターが半分なくなっていました。
昭和の毛糸と言えば編み物ですね。幼い頃のセーターは全部母の手作りでした。家には幅15cm、長さ1mくらいの編機がありまして、機械をじゃーじゃーと横に動かすと1段ずつ編んでいくものです。針の設定を変えると模様編みもできたと思います。その毛糸は姉たちのお下がりをほどいたものが多かったと記憶しています。束ねて直径50cmぐらいの輪っかにした毛糸を、両手を前習えのようにして広げて手を左右に動かし玉に巻くのを手伝っていました。
小学校時代、当時、女子が毛糸であやとりをしているのをよく見てました。ひとつ年上の女の子のことが好きで、彼女もよくひとりであやとりしてました。近くに行くたびに誘われ一緒に遊んでました。私は別にあやとりには興味がなかったのですが、彼女と話をしながら、あやとりで指と指が触れ合うことで小さな心がときめいていました。今思えば、初恋だったのかと。毛糸を見ると当時を思い出します。
私が小学生の頃、病院で待っている時間が長過ぎて暇だったので、母から毛糸をもらって妹の「あやとりの本」を見ながらあやとりを始めてみました。
それが、設計図を見てプラモデルを作る感じに似ていて、とても楽しくてハマってしまいました。
特に、あやとりで作る東京タワーが好きで、今でも指が覚えています。
私の母子手帳に私が生まれた時にいただいた出産祝いの覚え書きが母の文字で書いてありました。そのお祝い品の内10個くらいが毛糸で、それを見た時、「出産子育てで大変な時期に自分で編め?と何て厳しい時代だったんだ」と思いました。
まだ、私達が結婚したての頃、主人のウールのセーター(結構 良い品)をうっかり他の洗濯物と一緒に洗濯機で洗ってしまい、見事に子供のセーター位に縮んでしまい、もう笑うしかありませんでした。主人も滅多に着ないので忘れてるかと思ったら「あのセーター知らんか?」と言われた時、もう既に私は捨てていたので「知らんよー」と言ってしまいました。後にちゃんとホントのことを言いました。
あれ以来、ウールマークの製品の洗濯には神経質になりました。
小学生の頃のこと。ご近所のとある家の前を通ると縁側にお婆さんがいて、自分を見つけて手招きするんで、菓子でもくれるのかと思い、ヒョイヒョイとお婆さんの側に行くと、「両手を伸ばしてくれ」と頼まれました。
すると、その両手に、セーターをほどいた毛糸をくるくると巻かれました。それからまた、両手に巻かれた毛糸を上手に玉にしました。その後、手伝ったお礼にと、かき餅が貰えて喜んだ記憶があります。
さて、次週も、「昭和の毛糸」で行きましょう。今週もたくさん来ました!編み機、マフラー、毛糸のパンツetc果たして来週全部紹介できるのか?これを聴いて思い出したネタもお待ちしております!
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今回は「昭和の街に出る」
https://www.youtube.com/watch?v=-POdb-L7D9E
昭和の楽しい休日の思い出話がいっぱいです。
ぜひ、ご覧ください~。
昭和の りんごPART2
2025年01月19日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和のりんごPART2」で30分。
今日は野口五郎さんの♪青いリンゴを聴きながらスタート。
友達に今回のテーマ「昭和のリンゴとは?」と尋ねると「そりゃあ、野口五郎の青いリンゴに決まってるじゃん」と…。当時からのファンで、少し前にコンサートにも行ったらしく、即答でした
私はというと、若い頃に勤めてた会社の憧れの先輩(西城秀樹似)が入院していて、そのお見舞いに行きリンゴを剥いたことがあったなぁ…と思い出しました。今頃では考えらない…リンゴどころか、お見舞いすら制限がありますものね。
先週、リンゴ箱の話がありましたが、
たぶん幼稚園とかの頃、
父がそのリンゴ箱の底に子供用のスキーを取り付けて「そり」を作ってくれました。
坂道を滑ったりすることはなかったと思うんですが、ロープを付けて引っ張って遊んでくれてたと思います。当時、境港は、雪がよく降って、積もりましたからね。
私の家は、代々、果樹園をやっていました。
ある日、母がいつもの通り、たっぷり蜜が入ったりんご「ふじ」をお客様に送ったところ、
「りんごが全部腐っていたので捨てた。」とクレームの電話を受けたそうです。母は、りんごはそうそう腐る物じゃないので、よく尋ねてみたら、「たっぷり入っていた蜜を腐っているもの」と勘違いしたとのことでした。それ以来、「蜜入り」というスタンプを作り、段ボール箱に押してアピールしていました。
自分が小さかった頃は、必ずと言っていいほど、りんごといえば「スターキング」でしたね。
実の母親がお弁当の中に、皮をむいて、うさぎさんみたく形にしてお弁当に入れてますけど、ちょっと塩辛かったです。「何でリンゴは塩辛いの」と聞いたら「茶色く変色してしまうからよ。」と言ってましたね。今となったら塩辛いりんごも懐かしい思い出です。
昭和50年頃、母が庭にリンゴの「ふじ」の苗木を植えました。すくすくと育ちましたが、一本だけでは受粉しないので、ホームセンターで花粉を買って人工受粉してました。そのうち受粉樹として「早生りんご」を植え、少し酸っぱいリンゴを食べました。しかし、数年後に弱り始め、調べてみたら、リンゴカミキリの被害で枝がことごとく枯れていったようです。
先週の放送を聞いて思い出しました
宮崎に住んでいた小学校高学年の頃のお話です。
青森から来たというリンゴ売りのおじさんがやって来ていました。
当時はトラックいっぱいの木箱に入ったリンゴが珍しくて、大はしゃぎで買ってもらいました。
気前のいい母は「箱買い」してくれました。たしか二箱ぐらい、国光と紅玉。
小ぶりのリンゴが箱いっぱい入っていて、学校から帰るのが楽しみでした。毎日食べていましたよ。
今、思えば、本当に青森からきたのかどうかは不明ですが、南国宮崎ではよく売れるから来ていたのかもしれませんね。
リンゴと言えば長野を思い出します。
50年前、勤めていた銀行の保養所が軽井沢にあるので同期会でスケートをしに行きました。
当時の軽井沢は今ほどオシャレでもなく人出も多くありませんでした。
途中の青果店でリンゴをひと山買い、夜みんなで食べてのですがその美味しかったこと!
しっかり蜜が入っていてビックリしました。帰りにお土産として買って帰ったほどです。
さて、次週、1/26は「昭和の毛糸」で行きましょう。セーター、手袋、帽子、まぁ、編み物ネタはたくさん来ると思いますが、座布団とかもありましたね。確か毛糸で鯛を釣るおじさんもいたなぁ。次週は「昭和の毛糸」でお待ちしております!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=HuVO8KlJQWI
今回は「昭和の周防大島」
11月にお伺いした周防大島からの公開収録の模様と、翌週の「昭和の大島PART2」の2回分で作ってます。
大島文化センターのホールからの様子もぜひご覧ください!
昭和の りんご
2025年01月12日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今週は「昭和のりんご」で30分。
幼少期の頃、風邪をひくと、おばあちゃんが(薬を飲むより、これが効く!)と言って1個まるごとのリンゴを大根おろしのおろし器でおわんイッパイに剃って食べさせてくれました。
最初の数口は美味しいですが、その後飽きて時間がたつと茶色に変色、見た目も悪くて、ほとんど食べないまま、おばあちゃんにわからないように母から薬をもらって飲んでいました。
何の病気になっていたか記憶に無いのですが、病気の時だけ母がリンゴをすりおろして食べさせてくれていました。皮のままだったように覚えています。余程、具合が悪かった時だったのでしょう、すりおろしたリンゴをガーゼで絞った物を飲んだこともありました。昭30年前半頃です。
子どの頃は宇部に住んでいました。両親が長野生まれだったので、秋になると、長野からりんごが宇部新川駅に手荷物符票で届き、父親と一緒に荷物を新川駅まで取りに行きました。木箱を開けると緩衝材がわりの籾殻の中に赤いりんごが入っていました。当時は運搬条件が悪かったのか、一部は傷んでいた物もありました。りんごも今と違い甘くなく、酸っぱいりんごの方が多かった印象が残っています。
小学校で包丁の使い方を覚えてから『りんごの皮むき大会』がありました。早剥きではなく、リンゴの皮の長さ対決ですね。切れずに剥くのって、とても難しかったです。途中で切れましたが、割りと上位にランクインしていたと思います。
昭和のりんごと言えば、小学5~6年生の家庭科で包丁の使い方を学ぶ為か覚えてませんが、りんごの皮むきのテストがありました。調理師免許を持った母から鍛えられて、りんごの皮むきをしました。りんごを4つに切ってから芯と皮をのける方法と、りんごを切らずに丸ごと、皮を薄く細く長く剥く方法もやりました。初めは皮が分厚くなったり、指を切りそうになりましたが、何個も何個も毎日練習したおかげで上手に出来るようになりました。
父親の知人が長野にいたので長野産のりんごが送られてきました。木箱はテレビでしか見たことがなかったので珍しく、しばらくは置いていましたが、邪魔になって、当時、五右衛門風呂だったので燃やしちゃいました。
さて、次週、1/19も「昭和のりんご」で行きましょう。昔の林檎はそんなに甘くなかった。山根さんのお母さんは「リンゴに蜜が入っている」のを自慢げに見せびらかしていたetc次週も「昭和のリンゴ」でお待ちしております!
昭和の 背番号
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