ご昭和ください

ご昭和ください ブログ

昭和の 親切

2024年05月20日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 親切」で30分。
 
当時のお隣さんにして頂いていた、「電話の取り次ぎ」です。
我が家に電話が来たのは周囲よりだいぶ遅く、私が小学一年生の時の昭和51年でした。
それまでは、幼稚園や学校からの電話連絡など緊急を要する時は、お隣さんの電話にかかってくるようにして、わざわざ取り次いで貰っていました。
当時、二軒長屋の借家に住んでいて、お隣さんとは家族ぐるみのお付き合いをしていました。隣のお兄ちゃんには良く遊んで貰っていて、おじさんもおばさんも凄く親切。そんな良い関係だったので、電話を取り次いで貰えていたんだと思います。
私が小学に上がった時、姉はすでに中学生。学校からの連絡も増え、さすがにそろそろ電話を引こうとなったらしく、ようやく我が家に電話が来ました。当時は電話の加入権がまだ高価だったので、親も苦労したんでしょうね。
 
小学校の給食のコッペパンを、その日、用事等で休んだ児童の家まで、近くの家の同級生が持って行っていました。人数も今より多かったので出きたのかも分かりませんが、貧しい良き時代の小さな親切ではないでしょうかね!
 
私が幼い頃、おばあちゃんとお出掛けするため、バス停近くのお店でアイスを買っていたら、いつも10分ぐらい遅れるバスが定刻通りに到着したので、慌ててアイスの会計を済ませて急いでバス停に行きましたが、既にバスは出発していました。
おばあちゃんが急いで手を振りながら追いかけたら親切な運転手がバスを停めてくれて乗ることが出来ました。
 
昭和37年、我が家にはまだテレビがありませんでした。
私と姉はお隣の家に夕方の子ども番組を見せてもらいに行ってましたが、ちょうどごはん時なので、お隣の家のかたが親切に私達にも晩ごはんを出してくれたことがあって、次の日から私と姉は母の作ったお弁当を持ってお隣にテレビを見に行くようになりました。
今思えば弁当持参でテレビを見に行くのもなかなか図々しかったような…
 
昭和50年代頃、私が住んでいた大阪でも南の地域には親切というかおせっかいなおばちゃんが大勢おられました。
「いてるぅ~?」と声がした時には、もう家にあがって側まで来ていてビックリしたものです。
最初は少々戸惑いもありましたが、しばらくするとすっかり慣れて、そんな大阪のおばちゃんには育児などで随分助けられたなぁと思います。
ここ山口には、特に最近ではそんなおばちゃんは少なくなったのではないかと思います。
いい意味で、おせっかいな人生の先輩になれると良いなぁと思っています。
 
昭和の優しさと言えば、相手の受け身の技術の能力によって、バックドロップの投げる角度を変えていたというジャンボ鶴田さんでしょう!
あと、せっかくサーベルを口にくわえて来たのに、刺したりしないで、柄(つか)で殴るタイガー・ジェット・シンさん!これぞ、究極の優しさかと!
 
さて、次回5/26も「昭和の親切」で行きましょう。
山根さん曰く、もっとスケールのでかい親切話がないものかぁとリクエストしてますが、ちょっとしたものでも構いません、昭和の頃の親切話、お待ちしております!
 
ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=R-hZFmzn2UI&t=41s
「昭和の故障②」
かくれんぼしてると忘れさられる…。
子どもは小さな穴を見つけると大きくしたくなる…。

昭和の 隣の県PART2

2024年05月12日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 隣の県 PART2」で30分。
 
昭和の隣の県。
最初に行ったのは、島根県の津和野です。祖母の家が山口駅に近くにあり、よくSLを見てました。ある年の夏、大阪の従兄弟達と津和野に行く事になって、SLに乗り、車窓から流れる黒煙、忘れた頃に鳴る汽笛に興奮していたのを覚えています。
写真は、仁保駅だと思います。
なぜだか自分はライオンズ、弟は近鉄の野球帽です。
 
隣の県といいますか、青森県の私にとっては、隣の道(どう)、すなわち北海道の話になります。
私が小2だった昭和62年の春、父がいきなり「函館へ行くぞ!」と言い出したのです。
理由は、次の年に廃止が決まった青函連絡船に乗るためでした。
父と私は弘前駅を始発で出発し、青森駅から連絡船へ。船内はまるで祭りのような雰囲気で、野生のカモメやイルカが現れると歓声が上がり、竜飛岬が見えてくると、誰からともなく津軽海峡冬景色の大合唱。
そこから函館をひと通り観光し、夜の便で青森に戻って深夜に帰宅するという弾丸旅行でしたが、最初で最後の青函連絡船、そして初めて見る県外は、何もかもが目新しい物ばかりでした。
 
昭和の終わりに3年間広島に住んでいました。先週の放送のナタリー遊園地で思い出したのは、冬は屋外スケートリンクがあったのです。当時はまだ温暖化とは無縁で、遊びに行った日は雪が降っていてリンクに雪は積もっているし風も冷たくて幼稚園児の娘が寒さに泣き出したので早めに引き上げて帰りました。
 
「昭和の隣の県」で思い出すのが、愛媛県の大野ヶ原です。
中学生の頃、家族全員で行った最初で最後の旅行でした。朝早く出発し、柳井から松山へ、初めて車でフェーリーに乗りました。大野ヶ原で1泊、松山で1泊の2泊3日の旅でした。大野ヶ原の明け方に見た雲海と日の出は忘れられません。
既に、両親は他界しているので、この旅が最後だったんだなーと思い浮かべました。
 
お隣の県ですが、小学6年生の時の修学旅行が広島でした。バスで広島県に入ると、ランボルギーニカウンタックが走っていて、男子は「すげー!かっこいい!」と大興奮でした。当時お隣の県では、山口県では見かけないスポーツカーや外車が走っていて、都会だなとつくづく思いました。田舎の県あるあるでしょうか。
 
田布施町に住んでいた昭和56年前後の話です。
測量士補資格取得の為、受験地の広島へ。(この年は不合格。翌年合格)。
試験後に友達と、『ひょっとしたら“サテライトNO.1”の生録が見れるかも?』ってことで大慌てで第一産業に向かいました。
着いたところものすごい人だかり。。。
デビュー時の“中森明菜”さんがキャンペーンで来店していたのでした。結局、もみくちゃになりながら、後ろ姿しか見れずに、『山口には、アイドルこんよのぉ~!!』と帰りの電車で愚痴ったものでした。
 
さて、次回5/19は「昭和の親切」で行きましょう。
近所にいた親切なおばちゃん、坂道のリヤカーを押してくれる少年、デパートの入口のドアを開けて譲ったらしばらく次々にお客さんが入りつづけたetc昭和の頃の親切話、お待ちしております!

昭和の 隣の県

2024年05月05日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 隣の県」で30分。
 
「昭和の隣の県」といえば、やっぱり広島です。
小学、中学時代の夏休みや春休みに、家族でちょっと遠出をするとなると、我家の場合、広島でした。中でも、遊園地のナタリーには何度も連れていってもらいました。
ジェットコースターには私たち姉妹は怖がって乗らず父が一人で乗りました。今、思うと、子供たち以上に父も母も祖父も楽しんでいたような気がします。あの頃、遊園地に遊びに行くにも、父も母もきちんとした格好をしていたことに驚きます。
 
今でこそ ネットが充実してて情報が 田舎でもたくさん入手できるようになったけど、
当時のメディアはテレビとラジオ しかありませんでしたよね 。隣の県、広島、福岡はテレビ局が充実してて、なおかつバラエティ番組やアニメがリアルタイムで放映されてました。それにひきかえ山口県はテレビ局が2局しかなく、しかも 1クールぐらい遅れて放送されてたのはちょっと悲しかったです。
 
小学校低学年の昭和42年頃、父が小倉に出張に行くのについて行きました。
JRで防府駅から小倉まで行き帰りに小倉の百貨店に寄ると、キャプテン・ウルトラの中田博久さんのサイン会が開催されており、私もサイン色紙をもらい、嬉しかった思い出があります。そして、もともと我が家は漫画本を買うのは禁止でしたが帰りの電車に乗る前に父が漫画本を買ってくれました。父はビールを買ったので母への口封じだったのかも知れません。その漫画本は「おそ松くん」でした。
 
山形県に住んでいた頃、両親は果樹園を営んでいて、そこで採れた果物をトラックの荷台に積んでお隣の県の宮城県仙台市の市場に持っていくことがしばしばあり、たまに連れて行ってもらいました。
深夜にトラックから見える景色が大好きで毎回ウキウキしていたのと帰りに食べた自販機の天ぷらそばが美味しかったのを思い出します。
 
山陽小野田市在住ですので近いのは福岡県なのですが、母方の祖父の実家があり親戚もいたので、我が家はよく広島に行ってました。
本通り商店街に、家電の「ダイイチ」(現・エディオン)、そして、広島そごう。都会でしたねえ。
広島に行くと、いつも食べていた、小さなツボにルーが入って運ばれてくる「壺焼きカレー」が毎回楽しみでした。
 
さて、次回5/12も「昭和の隣の県」で行きましょう。高橋少年は子どもの頃の大型連休は、いつも、東京の隣の県、千葉県の海に潮干狩りに行っていました。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=CiPhjUTp0ac
「昭和の故障①」
連休中にぜひ!アーカイブもたくさんございます~。

昭和の 見た目PART2

2024年04月28日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の見た目 PART2」で30分。
 
小5の時、同級生で「アリスちゃん」というあだ名の女の子がいました。
“不思議の国のアリス”は全く関係がなく、見た目が谷村新司さんにそっくりだったからです。女の子なのに(笑)。
あだ名は、時に残酷な事がありますが、本人はアリスファンで喜んでおりました。
 
小学生の頃のテレビのアメリカ番組はとてもキラキラしていて、向こうの豊かな生活を初めて目にしたものです。中でも印象深いのは「名犬ラッシー」。私の家も近所も、飼っている犬はみんなどこかでもらってきた犬。が、通学途中に通る大きなお屋敷の門の中に居たのが、ラッシーと同じコリー犬の色違いの2匹。毎朝、幼いながら犬の種類で、我が家とは違うんだと感じていました。
 
昭和58年頃、仕事が終わってOL用の制服から私服に着替えました。その日の私の私服は、ベージュのTシャツの上にサマーニットの網のような透かし編みのベストを着てたんですが、上司に挨拶して帰ろうとしたら、座っていた上司がすごい勢いで私に近づいて来て、
「あーびっくりした。裸にスケスケのベストを着てるのかと思った」と言われました。
網のようなベストの下のベージュのTシャツが裸に見えたみたいですが、
「裸で歩くわけないだろ」と思いながら会社を後にした不適切にもほどがある時代の出来事でした。
 
小学生の頃、近所にいるおば様で、朝は頭にカーラーを巻いて、服装はハイジの様なフワーっとした ものをよく着ていらして、年齢は解らずきっと私の親より上というのは間違いなかったと思いますが、
私が大人になってからも変わらない風貌でした。洋裁をやってらした方で何度かお願いする事があり、そこで初めてお話しをして“マアなんて優しくて 人を幸せな気分にさせるオーラのある人なんだ と…”大好きになりました。
見た目で勝手に思い込み…人を見る目がないことに気付かされました。できれば、もう1度お会いしたかったです。
 
小学四年の事。通っていた小学校は木造校舎。
階段の下が掃除道具入れになっていまして、その木目がドクロにそっくりで怖かったです。
私だけに見えているのかもしれないと思い、友だちには言えませんでした。
 
昭和54年から56年、大学でラグビーをしていました。当時は、芝生のグラントはほとんどなく、試合直後は泥にまみれて傷だらけでした。
身長181cm、体重82 kgぐらいで、FWにしては細い方ですがチームの中では大きかったので、同期の仲間からは「牛」と呼ばれていました。
卒業式の記念に羽織袴を着て写真館で写真を撮りましたが、スポーツ刈りから伸ばした髪を見て、「入門したてで髷が結えない相撲取り」と言われました。
 
さて、次回5/5のテーマは「昭和の隣の県」で行きましょう。大物アーティストのコンサートは広島や福岡。ボーナスが出たら広島に出る。フェリーに乗って松山へ。高橋少年の実家は北に200mも行けば埼玉県所沢市です。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=KdL4tA1janA
「昭和の大きすぎる PART2」
山根語録→昭和の頃は靴を買う時に「ちょっと大きめのものを買うちょけ」って言われてた。

昭和の 見た目

2024年04月21日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の見た目」で30分。
 
クリスマスブーツのお菓子セット。
見た目は最高でしたが、上底の上に、いかにも売れ残りスナック菓子を詰めて、ほぼいっぱいの状態に有名メーカーのチョコ、ガムとかをのせてネットをかぶせて包んでありました。それでも、サンタからプレゼントもらったみたいに嬉しかった。
 
昭和50年頃、母方の祖父が「私の父に似てないか?」と、週刊誌に載っている小林亜星さんの写真を見せてくれました。父の方が少し痩せていたけど、 黒縁メガネで大柄でデップリしたお腹に「似てる~!」と家族で大笑いしました。
 
母親に出来上がったばかりの高校の卒業アルバムを見せたら「なんで先生が学生服を着ちょるんかね?」と聞くんで、見ると、それは同級生のガミくんでした。逆に、担任の先生は、大学を卒業したばかりの童顔だったので余計老け顔のガミくんが先生に見えたようでした。
 
昭和のプロ野球の映像、特にON全盛期の頃
観客席が写るとほとんどが男性、しかも背広にネクタというイメージがあります。
まるで後楽園球場の内野席にはドレスコードがあったんじゃないかと思わせるほどです。
みんな一張羅を着て気合いを入れて野球観戦してたんでしょうかね。
 
小学6年生の時にハイソックスなるものが登場しました。とてもオシャレに見えて親にねだりましたが却下。制服の無い学校だったので、どうしてもハイソックスを履きたい私は発明しました。靴下を濡らして引っ張り上げたらハイソックスになったのです。友達から「買ってもらったん?」と聞かれて「うん!」とウソを付いていました。でも、このニセモノのハイソックスは常に濡れていなければいけないのです。時間がたって乾くと、魔法が取れて只の靴下になってしまいます。授業中、次第に乾いてゆくのが気が気じゃありませんでした。  
 
21歳の時、初めて買ったのが、中古のホンダN360です。空冷の360cc、レッドゾーンは確か6000回転、単車のエンジンです。
当時、エアコンなど無く、三角窓から、車内に空気を入れて、涼をとっていました。
そんな時見つけたのが「冷房車」の青い文字のシール。これを窓ガラスに貼り、真夏の暑い日、わざわざ窓を閉め、見た目冷房が効いている振りで走ってました。車中は灼熱地獄でした。
 
中学校はお弁当持参でした。我が家はそれほど貧しいという程の家でも無かったのですが、父の方針でご飯は白米と麦を混ぜたご飯でした。世の中もこの頃には白米の時代。お弁当のご飯に麦が入ってるのが恥ずかしくて弁当箱の蓋を立てて食べていました。でも、ある日気が付きました。ご飯が炊けた時、麦は軽いからか炊きあがりの上層に集まる。それ以来、自分でお弁当箱にご飯を詰めることにしたのです。麦を避けて下に沈んでいる白米だけをすくって白米弁当にしたのです。今は健康志向で麦も堂々と食べられてて、あの時の私の苦労が可哀想に思えてます。
 
さて、次回4/28も「昭和の見た目」で行きましょう。老け顔ネタ、ドーベルマンがいるお家は裕福に見える、見た目で勝負するために車をカスタムするetc次週も昭和の見た目のネタお待ちしています!
 
ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=-B0G92K0OlA
「昭和の大きすぎる」
トレンディドラマのW浅野が使っていた携帯電話ってデカかったなぁ。

昭和の 故障PART2

2024年04月14日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の故障 PART2」で30分。
 
子どもの頃、ファミコンのコンセントのケーブルをぐるぐる巻きにして保管していたのですが、そうすることによってアダプタの接触がすぐに悪くなってしまい…。うちではジャンプを重しにして凌いでいたのですが、ちょっとした衝撃で電源が落ちてしまうため、テレビの前を通る妹に「動かんといて!」とよく喧嘩をしていました
 
傘を直してたお店屋さんは神田町ですね。傘の骨が折れたり、持ち手が壊れたりした時によく直してもらってましたね。山根さん、懐かしい話をありがとうございました。そうですよね、昔はそんなに買って貰えなかったですよね。
 
私が10歳頃まで住んでいた家のお風呂は樽を大きくした様の物でした。底も周りも全て木を組み合わせて出来ているからか、度々水漏れをしてました。その度に父は木の皮を軟らかくした繊維状の物を木槌を使って隙間に詰めていました。
 
超能力ブームのころ、ユリ・ゲラーが出演した生番組がありました。
その番組中で、もし動かなくなった時計があったら
テレビの前に持ってきて下さい。念を送りますと言われたので、故障していた置き時計をブラウン管の前に置いてテレビを見ていましたが
やっぱり動き出しませんでした。
 
実家のラーメン店の中にあったビールやジュースを入れていた透明な冷蔵庫が真夏に故障しました。交換する事になり、新しい冷蔵庫が届くまでの間、別の離れた冷蔵庫まで、飲み物も取りに行かなければならず、夏休みで手伝いをしていましたが、大変でした。
 
ある年の真冬に誰もいないのにインターホンが鳴ることがありました。
接触の問題かと思い、玄関の子機を叩いてみたところ蟻がちらほらと出てきたため、蓋を開けてみると子機の内部が蟻の巣になってました。
機器内が温かいため巣を作ったようで、蟻が接点に触れてインターホンが鳴ってしまったようです。
 
18歳の時にバイクで走っているとマフラーが落ちてしまったことがあり…。熱々のマフラーを拾った後に近くの金物屋さんで紐を買い、マフラーを紐でくくりつけて背中に背負って、爆音の中帰ったことがあります。たまたま暴走族が通りかかったのですが、私のバイクの方が圧倒的に音がうるさく、逃げるように帰りました。
 
さて、次回4/21のテーマは「昭和の見た目故」で行きましょう。子供の頃から太っちょだった僕はかなり気にしてました、見た目。弁当の見た目も気になる、見た目300g入っているはずなのに意外に少ないと思ったら上げ底してたetc 昭和時代の“見た目”話をお待ちしておりますよ~。
 
ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=86TGzNduVOk
「昭和のお腹が痛い②」
我が故郷、西武園ゆうえんちが今熱い!というお話も。
 
そして、今回はもうひとつご紹介したいメールが。
テーマとは無関係なのですが、ちょっと気になった事が…。
エフエム秋田で
「柳葉敏郎の昭和をご唱和願います」
という番組が始まっているようです。
タイトルが似てますよね~と思ってしまいました(笑)
私ども「大人のラジオバラエティ ご昭和ください」は、“昭和”と“ご唱和”をかけてのネーミングで2012年4月にスタートしました。
なんか、親近感ありますね~。

昭和の 故障

2024年04月07日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
令和6年度シーズンが始まりました。
番組開始13年目のシーズンもよろしくお願いいたします。
今日は「昭和の故障」で30分。
 
 
炊飯ジャーの蓋が、閉めてしばらく経ってから勝手にパカッと開いて、保温中に開いたのに気づかないと中のごはんが乾いてカチカチになったことがありました。蓋を閉めた時はカチッと閉まるんだけど、時間差で開くのが困りものです。
故障かなと思いましたが、内釜の周りの蓋が合わさる部分にごはん粒を落とすと、ごはん粒が乾いてカチカチになって蓋の閉まりが甘くなり、時間差で開くことがわかり、その後は内釜の周りにごはん粒が落ちてないか気をつけるようになりました。
 
昭和30?40年代前半頃のテレビは、よく故障していました。テレビが映らなくなると、まず、たたく。案外、たたくと治るのは接触不良が原因だと思うんですが、叩いても治らない場合は修理を依頼していました。テレビ屋のおじさんは、革のアタッシュケースを開けると、様々な形の真空管がびっしり入っていて、何本か取り替えると不思議とテレビは映るようになりました。
最近では、家電や時計など修理する事は少なくなりましたね。
 
子供の頃、とにかくおっさんは、テレビとか、ラジオが調子悪いと、しばいてました。そして、揺さぶってみる。
ひどいおっさんは、「少しあぶってみい、」とか言って一斗缶で火をたいている所にラジオを持って行き、わやをしてました。
でも、不思議と直る事が多かったんです
 
「昭和の故障」と言えばやっぱりテレビですね、
最初に買ったテレビのチャンネルはダイヤル式でした。
ある時、ダイヤルをひねって、手を離すと映りが悪くなりました。手を離すと接点がずれる様になってしまったのが原因でした。
そこで、我が家の対策はというと…
ダイヤルの ひねる部分とテレビ台の間に「つっかい棒」をかませて、接点を合わせる原始的な方法です。ダイヤルに合わせて長さの違う棒をそろえてました。振動で「つっかい棒」が外れてしまうので
テレビを見ている間は近くでドタバタしないルールができました。
 
新車を買う契約をして、それまで乗っていた車は下取りに出すことにしました。
納車日が決まり、下取り車での最後のドライブは先輩を乗せてのゴルフ。
ゴルフが終わって国道を走っていると、突然エンジンが停止、ギヤをニュートラルに入れて惰性で走り、何とか道路沿いの空地に停車できました。
携帯電話を持っていない頃で、近くに公衆電話も無い、少し歩いて、近くの会社で電話を借りディーラーに連絡しました。調べてもらうと、タイミングベルトが切れていました。
 
父が若かった昭和30年代、川崎駅前やトンネルの中で車が故障しても自分で修理していたと、自慢していました。しかし、埼玉に引っ越した昭和55年、家族旅行中に車が故障した時は「今の車は複雑すぎる」と言っていました。なんとか修理店までたどり着き、帰る事ができました。
 
さて、次回4/14も「昭和の故障」で行きましょう。機械絡みの話が多くなるんでしょうが、車やテレビ以外のお話もお待ちしております。
エアコン、お風呂、おもちゃetc 今年度も“ご昭和リスナー”の皆さんのニッチなネタお待ちしておりますよ~。

昭和の クリアランス

2024年03月31日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今週は令和5年度最終日ということで、これまで紹介したかったけど読めなかったクリアランスメッセージ特集で30分。
 
2018年「昭和のコーヒー」
コーヒールンバを聴いて思い出したことがあります。井上陽水さんがこの曲をカバーした時、笑っていいとものテレフォンショッキングに出て歌っていました。
「それは素敵な飲み物コーヒーモカマタリ」と歌った後、「この、コーヒーモカマタリっていうのは、コーヒーも藤原鎌足…って意味じゃないですよ」とタモリさんに言ってたのを思い出しました。
井上陽水さんって面白い人ですね。
 
2018年「昭和のコーヒー」
私たちの時代はコーヒーに限らず、お茶以外の飲み物は珍しく、ハイカラという感じが多かったように思います。家でコーヒーをいれて飲むなどということはほとんどなく、せいぜい街に出た時に瓶入りのコーヒー牛乳を飲むという程度のことでした。それもごくたまに。その頃、私の同級生がお見合いをしました。わざわざ大阪まで出かけてのことです。そのお見合いの席は喫茶店のようなところだったとかで、お母さんと二人で行ったのだそうです。その席で出されたコーヒー。ちゃんとお皿に乗ってスプーンの添えられたコーヒーなど、田舎者にはとても珍しいものでしたが、ちょっとハイカラ好みだったお母さんがいかにもしたり顔で、スプーンですくって飲み始めたとか。顔から火が出るほど恥ずかしかったと話していたのを思い出しました。
 
2014年「昭和の東京」
昭和の東京の風景。初期の若大将シリーズを見ると東京の街に緑が多く、なんと若大将が都内でマラソン大会をして走っています。「日本一の若大将」
 
2015年ハガキ
山根さんが「夏休みは遊ぶように」と言われていましたが、私もそう思います。今51才になる娘が小学5年生の時、担任の先生が「夏は暑くて勉強が出来ないので夏休みがあるのだから宿題はださない」と言ってらっしゃいました。私も賛成でした。
 
2020年に寄せられたEメール
先週、二週に渡り、長崎ちゃんめんの話題、懐かしく聴いておりました。大学時代、祖父が山陽小野田市の病院に入院しており、そばにありました長崎ちゃんめんに家族と訪れたのが長崎ちゃんめんデビューでした。その後、叔母がお店にパートでお世話になったり、父が広島から厚狭に転住した後も近くにお店が移転?し、帰省した際にはよく食べに行ったものです。
 
さて、次回4/7のテーマは
「昭和の 故障」で行きましょう。車、テレビ、エアコン、お風呂、おもちゃetc 4月からご昭和くださいは、放送開始13年目のシーズンに入ります。
今年度も“ご昭和リスナー”の皆さんのニッチなネタお待ちしておりますよ~。

昭和の 我が家の常識PART2

2024年03月24日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今週は「昭和の 我が家の常識PART2」で30分。
 
私が幼い頃、母が「ハンバーグよ」と言って出すのはひき肉の料理ではなく、魚肉ソーセージを太くしたようなやつを切って焼いたものでした。
我が家ではあれをハンバーグと呼んでいたので、ハンバーグはああいうものだとけっこう大きくなるまで思い込んでいました。
 
小学生のとき、勉強は宿題だけしてたらいい、と言われてました中学、高校も勉強について、何も言われることはありませんでした
 
『電気製品を使ったら必ずコンセントor電池を抜く!!』
わが家では、冷蔵庫以外の電化製品は、使い終わるとコンセントから抜いたり、乾電池等取り出していました。
ある時、台風で、停電になった時は、明かりを探すのにそりゃあ~大変でしたが、それからというもの、父は臆することなく停電しそうなときは、なぜかあらかじめローソクをつけてやりくりしていました。相当、頑固者の父でした。
 
徳山に出かける時は必ずと言っていいほど よそ行きの格好をさせられました。
当時の徳山の街は今とは違ってと「ても賑やかで華やかだったからではないかと」今となって推測しております。
 
「貸したお金はあげたと思いなさい」です。
お金を貸すなら、戻ってこないという気持ちで貸すことです。
入社当時、独身寮の先輩に1万円を貸したんですが、その先輩はそのまま転勤となり、結局返してもらえませんでした。
戻ってこないと思い、貸したんですけど、40年以上前の話ですが、
やっぱり未だに覚えてはいるんですよね。
 
我が家は和食中心で、小学校4年生から祖父母と同居していたので、魚料理、野菜の煮物が中心でした。
たまに父の妹(私の叔母)か来てくれると、普段食べた事のない料理を作ってくれるのが、楽しみでした。
その料理の中でもホワイトシチューを作ってくれたのは良いのですが、我が家には洋食器がなく、汁椀で代用して、美味しく頂きました。
後日、学校の調理実習でシチューを作る事があり、学校には洋食器が揃えられている事に感激し、友達に「この前、ウチのシチュー汁椀に入ってたんよ。」と笑い話でお喋りしました。
学校から帰って、その話を母に言うと、「恥ずかしい事をベラベラ喋るんじゃない」と、すごく怒られました。
 
我が家では、カレーライスを食べるとき、箸で食べていました。
しかも、塗り箸を使って食べるのが常識でした。
そういうものだと思っていたから疑問に思いませんでしたが、給食でカレーが出たとき、先割れスプーンを使ったら、とても食べやすい。
なぜ、箸で食べるのかを聞いたところスプーンが皿に当たる音がカチャカチャうるさいからということでした。
なので、その後もしばらく箸で食べていました。
 
さて、次回3/31は令和5年度最終日ということでネタのクリアランス“いつか読みたいBOX”からご紹介します。
お楽しみに!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=vob3GOn1r2I
「昭和のノドがカラカラ」
山根さんの素朴な質問「マイナスイオンのイオンって何ですか?」

昭和の 我が家の常識

2024年03月17日

昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
 
今週は「昭和の 我が家の常識」で30分。
 
昭和の我が家の常識。
「コタツに入る時は靴下を脱ぐ!」です。
私が小学生の頃のこと。「靴下を履いたままでコタツに入るとコタツの中が臭くなる!!」と母親が言っていたので、家族はそれに従っていました。なので私はそれが普通なのだと思っていました。
ある日、友達が遊びに来た時、「お母さんが怒るけぇ、コタツに入る前には靴下を脱いでくれ。」と言うと凄くめんどくさがられました。その時は、「よそではやらないんだ!」と逆に驚きました。
実は、私もコタツに入る前に靴下を脱ぐというのが内心面倒だなーとは思っていましたが、コタツで靴下を脱がない友達の家に行った時にその家のコタツの匂いを嗅ぐと確かに臭い!!お母さんの言う事は正しいんだなとその時思いました。
 
小・中・高と福井県で過ごしたものです。
昭和の我が家の常識と言えば、
家が夏季限定(7?8月)の観光地商売をやっていたので、
「夏休み中は子供達も家業を手伝う!」でした。
結局、小中高大は勿論のこと、就職してからも結婚して子供が出来るまでは毎夏手伝ってました。
 
我が家の常識は、「テレビを見る権限は親父にあり」でした。
「仮面ライダー」や「8時だヨ!全員集合」を見たくても見られませんでした。
父は会社から帰ってくるとまず、チャンネルを①に変えニュースを見ていました。
チャンネルを変えようものなら、怒鳴り上げられ、よく泣いていました。
でも、時々、帰ってくるのが遅い時や、父が出張の時は「仮面ライダー」を見ることが出来ました。
その反動か、大人になって「仮面ライダー」を最初から最後まで思う存分見ました。
 
私が子どもの頃、我が家では夜9時以降のテレビは見せてもらえませんでした。
唯一、土曜日の夜やってた「キイハンター」だけは、次の日が学校が休みということで、なんとか親に頼みこんで見るのを許してもらっていました。
あと、大晦日の夜だけは子どもも遅くまで起きていても怒られなかったので、すごく楽しみな特別な夜でした。
お正月の間店が閉まるので母が大晦日に食料を買いだめするのについて行くと、
レジカゴに私が勝手にお菓子を入れても、大晦日だけは怒られないので、好きなお菓子も食べ放題で嬉しかったです。
 
実家では、お正月三が日は、「新年早々食器を割ると縁起が悪い!」と言うことで、プラスチックや漆器等を使っていました。
結婚してからも、同じようにしています。
 
今でこそ、誰もが色んなおかずにマヨネーズをかけてますが、自分が子供の頃には、「マヨネーズはサラダに使うも」のといった固定観念がありました。しかし、我が家では、「ホカホカのご飯に思い切りマヨネーズをかけて食べるのは当たり前」で常識でした、ある時、友達とご飯を食べる機会があり、サラダに使うマヨネーズをご飯にかけたら、みんながビックリしてました。
 
『お金を持ってはダメ(高校まで)』
厳格だった父曰く、"働かざる者お金を持つべからず。ほしいものは、わしが判断して買う!!"でありまして、たとえ鉛筆やノートを買うことも許してもらえませんでした。
当時、学校で必要な○○費の回収は必ず封筒を学校から渡されていたのですが、びっしり糊付けされたものを渡された記憶が残ります。
部活終わりに商店に友達と寄れなかったことは今でも思い出します。
 
自分が子供の頃、我が家は三世代家族で、風呂に入る順番は一番はじいちゃん、二番は父親と決まっていました。
 
ところが、じいちゃんが晩年になると
「一番風呂は湯が硬いから、お前が先に入れ、ワシは二番風呂に入るから」と言われて、自分が一番に入っていました。
その時は「湯が硬い訳がないじゃん」と思って入っていましたが、今頃になってその感覚がわかってきました。
確かに、二番風呂の方が湯が柔らかく感じます。
 
さて、次回3/24も、「昭和の 我が家の常識PART2」で行きましょう。
靴を揃える、知人宅に行くときは新しい靴下を履く、違うものを肉だと思っていたetcあなたの家ならではの常識をお待ちしています!
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=k9UItBeVTNg&t=115s
「昭和の掃除②」
トイレ話で、ラジオでは出せなかったネタを動画オンリーで出してます!


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