ご昭和ください ブログ
昭和の 我が家の常識PART2
2024年03月24日
昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
今週は「昭和の 我が家の常識PART2」で30分。
私が幼い頃、母が「ハンバーグよ」と言って出すのはひき肉の料理ではなく、魚肉ソーセージを太くしたようなやつを切って焼いたものでした。
我が家ではあれをハンバーグと呼んでいたので、ハンバーグはああいうものだとけっこう大きくなるまで思い込んでいました。
小学生のとき、勉強は宿題だけしてたらいい、と言われてました中学、高校も勉強について、何も言われることはありませんでした
『電気製品を使ったら必ずコンセントor電池を抜く!!』
わが家では、冷蔵庫以外の電化製品は、使い終わるとコンセントから抜いたり、乾電池等取り出していました。
ある時、台風で、停電になった時は、明かりを探すのにそりゃあ~大変でしたが、それからというもの、父は臆することなく停電しそうなときは、なぜかあらかじめローソクをつけてやりくりしていました。相当、頑固者の父でした。
徳山に出かける時は必ずと言っていいほど よそ行きの格好をさせられました。
当時の徳山の街は今とは違ってと「ても賑やかで華やかだったからではないかと」今となって推測しております。
「貸したお金はあげたと思いなさい」です。
お金を貸すなら、戻ってこないという気持ちで貸すことです。
入社当時、独身寮の先輩に1万円を貸したんですが、その先輩はそのまま転勤となり、結局返してもらえませんでした。
戻ってこないと思い、貸したんですけど、40年以上前の話ですが、
やっぱり未だに覚えてはいるんですよね。
我が家は和食中心で、小学校4年生から祖父母と同居していたので、魚料理、野菜の煮物が中心でした。
たまに父の妹(私の叔母)か来てくれると、普段食べた事のない料理を作ってくれるのが、楽しみでした。
その料理の中でもホワイトシチューを作ってくれたのは良いのですが、我が家には洋食器がなく、汁椀で代用して、美味しく頂きました。
後日、学校の調理実習でシチューを作る事があり、学校には洋食器が揃えられている事に感激し、友達に「この前、ウチのシチュー汁椀に入ってたんよ。」と笑い話でお喋りしました。
学校から帰って、その話を母に言うと、「恥ずかしい事をベラベラ喋るんじゃない」と、すごく怒られました。
我が家では、カレーライスを食べるとき、箸で食べていました。
しかも、塗り箸を使って食べるのが常識でした。
そういうものだと思っていたから疑問に思いませんでしたが、給食でカレーが出たとき、先割れスプーンを使ったら、とても食べやすい。
なぜ、箸で食べるのかを聞いたところスプーンが皿に当たる音がカチャカチャうるさいからということでした。
なので、その後もしばらく箸で食べていました。
さて、次回3/31は令和5年度最終日ということでネタのクリアランス“いつか読みたいBOX”からご紹介します。
お楽しみに!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=vob3GOn1r2I
「昭和のノドがカラカラ」
山根さんの素朴な質問「マイナスイオンのイオンって何ですか?」
昭和の 我が家の常識
2024年03月17日
昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
今週は「昭和の 我が家の常識」で30分。
昭和の我が家の常識。
「コタツに入る時は靴下を脱ぐ!」です。
私が小学生の頃のこと。「靴下を履いたままでコタツに入るとコタツの中が臭くなる!!」と母親が言っていたので、家族はそれに従っていました。なので私はそれが普通なのだと思っていました。
ある日、友達が遊びに来た時、「お母さんが怒るけぇ、コタツに入る前には靴下を脱いでくれ。」と言うと凄くめんどくさがられました。その時は、「よそではやらないんだ!」と逆に驚きました。
実は、私もコタツに入る前に靴下を脱ぐというのが内心面倒だなーとは思っていましたが、コタツで靴下を脱がない友達の家に行った時にその家のコタツの匂いを嗅ぐと確かに臭い!!お母さんの言う事は正しいんだなとその時思いました。
小・中・高と福井県で過ごしたものです。
昭和の我が家の常識と言えば、
家が夏季限定(7?8月)の観光地商売をやっていたので、
「夏休み中は子供達も家業を手伝う!」でした。
結局、小中高大は勿論のこと、就職してからも結婚して子供が出来るまでは毎夏手伝ってました。
我が家の常識は、「テレビを見る権限は親父にあり」でした。
「仮面ライダー」や「8時だヨ!全員集合」を見たくても見られませんでした。
父は会社から帰ってくるとまず、チャンネルを①に変えニュースを見ていました。
チャンネルを変えようものなら、怒鳴り上げられ、よく泣いていました。
でも、時々、帰ってくるのが遅い時や、父が出張の時は「仮面ライダー」を見ることが出来ました。
その反動か、大人になって「仮面ライダー」を最初から最後まで思う存分見ました。
私が子どもの頃、我が家では夜9時以降のテレビは見せてもらえませんでした。
唯一、土曜日の夜やってた「キイハンター」だけは、次の日が学校が休みということで、なんとか親に頼みこんで見るのを許してもらっていました。
あと、大晦日の夜だけは子どもも遅くまで起きていても怒られなかったので、すごく楽しみな特別な夜でした。
お正月の間店が閉まるので母が大晦日に食料を買いだめするのについて行くと、
レジカゴに私が勝手にお菓子を入れても、大晦日だけは怒られないので、好きなお菓子も食べ放題で嬉しかったです。
実家では、お正月三が日は、「新年早々食器を割ると縁起が悪い!」と言うことで、プラスチックや漆器等を使っていました。
結婚してからも、同じようにしています。
今でこそ、誰もが色んなおかずにマヨネーズをかけてますが、自分が子供の頃には、「マヨネーズはサラダに使うも」のといった固定観念がありました。しかし、我が家では、「ホカホカのご飯に思い切りマヨネーズをかけて食べるのは当たり前」で常識でした、ある時、友達とご飯を食べる機会があり、サラダに使うマヨネーズをご飯にかけたら、みんながビックリしてました。
『お金を持ってはダメ(高校まで)』
厳格だった父曰く、"働かざる者お金を持つべからず。ほしいものは、わしが判断して買う!!"でありまして、たとえ鉛筆やノートを買うことも許してもらえませんでした。
当時、学校で必要な○○費の回収は必ず封筒を学校から渡されていたのですが、びっしり糊付けされたものを渡された記憶が残ります。
部活終わりに商店に友達と寄れなかったことは今でも思い出します。
自分が子供の頃、我が家は三世代家族で、風呂に入る順番は一番はじいちゃん、二番は父親と決まっていました。
ところが、じいちゃんが晩年になると
「一番風呂は湯が硬いから、お前が先に入れ、ワシは二番風呂に入るから」と言われて、自分が一番に入っていました。
その時は「湯が硬い訳がないじゃん」と思って入っていましたが、今頃になってその感覚がわかってきました。
確かに、二番風呂の方が湯が柔らかく感じます。
さて、次回3/24も、「昭和の 我が家の常識PART2」で行きましょう。
靴を揃える、知人宅に行くときは新しい靴下を履く、違うものを肉だと思っていたetcあなたの家ならではの常識をお待ちしています!
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「昭和の掃除②」
トイレ話で、ラジオでは出せなかったネタを動画オンリーで出してます!
昭和の 大きすぎるPART2
2024年03月10日
昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
今週は「昭和の 大きすぎるPART2」で30分。
昭和56年専門学校に通っていた頃のこと。夕方の広島・繁華街を友人3人とブラブラしていたら大きな外国人5人がいて、通訳の日本人が「彼らがディスコに行きたい!って言うから連れて行ってくれ」と頼まれ、外国人5人のなかで1番小柄な人がリーダーみたいで、すぐタクシーを捕まえようとするから僕が「near!walk!」で英語が通じて歩いて、やっとディスコがあるビルのエレベーターに皆で乗ることができました。あまりのデカさに驚きました。実は翌日わかったのが、その外国人5人はエキシビションで広島に来ていたカンザスシティ・ロイヤルズの選手で、1番小柄なリーダー格の人は数年後ロイヤルズの永久欠番5のジョージ・ブレットでした!あの時写真を撮ったりサインをいただいていれば……。懐かしい思い出です。
昭和47年、女子短大1年生でした。西宮市で2人部屋の女子寮に入っていました。相手の彼女は大柄で教育科。私は小柄で被服科。
授業時間が違っていて、その日、私が先に登校。学校は制服があり、黒のテーラーの上着とタイトスカート。「今日は椅子の立ち座りが楽だったなぁ」と寮に帰ると、彼女から「今日学校に行こうとしたら、あなたの小さい制服しかなくて着られないから学校に行けなかった」と言われてしまいました。クローゼットは1つを2人で使ってて、そんなことになってしまいました。
ご近所さんに、夏になるとふんどし姿で夕涼みするオジさんがいて、「お前ら服でも靴でも買うんなら大きなのを買わにゃあ損で」と、からかわれてました。そのオジさんは、私達が遊んでたら、よく粉末のオレンジジュース(渡辺だったかな?)を作ってくれてました。懐かしいなぁ…。あの頃の人達に会いたいものです。
小学校の卒業式に、記念品として卒業生に紅白饅頭が配られました。今、思い返せば、直径10センチ位でつやつやして美味しそうでした。その時は「何てでかくて美味しそうんな饅頭なんじゃろう」とえらく感動しましたが、食べたらぱさぱさで、おせじにも美味しいというものではありませんでした。
大昔のコンピューターのその前身の電子計算機。昭和50年頃に広島市で見学した事があります。広さは学校の教室4部屋分位が電算機室でした。防塵服を着て室内に入ると、二重床からの空調やラインプリンターが印刷する凄まじい音がしており、カードリーダーも時折かなりのスピードで動いていました。オープンリールテープレコーダーの親玉のような装置もあったと記憶しています。
その時の説明では、中央演算装置(CPU)のメインメモリは、ワンボックスの軽自動車位の大きさのケースの中にあり、容量が512KB(キロバイト)との事でした。
今のメモリは指先に乗るICチップですが、当時は穴の空いた円形の磁石に電線を通し、磁化されている方向が右回りか左回りかで1か0を記憶する方法でした。
「昭和の大きすぎる」で思い出すのが、プロレスラー「マクガイヤー・ブラザース」のおしりです。確か昭和49年ごろ徳山体育館からの中継をテレビで見た記憶があります。体育館の中をミニバイクに乗って登場し、バイクが潰れそうでかわいそうに見えました。マグガイヤー・ブラザーズ2人に対して日本人4人の2対4のタッグマッチだったと思います。インパクトありすぎでした。
さて、次回3/18は、「昭和の 我が家の常識」で行きましょう。
風呂は親父が一番に入る、ブラウン管テレビを叩くと映りがよくなる、イチゴを食べる時は牛乳をかけて潰してイチゴミルクにするetc.あなたの家ならではの常識をお待ちしています!
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「昭和の掃除①」
寝る前に1話ずつ見てますが、楽しい気分になっていい夢見られますよ。
昭和の 大きすぎる
2024年03月03日
昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
今週は「昭和の 大きすぎる」で30分。
昭和の大きすぎる、それは外国人プロレスラーですね。
アンドレ・ザ・ジャイアントも大きかったですが、私は昭和の終わりから平成に活躍したクラッシャー・バンバン・ビガロとビッグバン・ベイダーの2人の大きさの割に動ける身体能力にビックリしました。ロープ最上段からのムーンサルトプレスをこなすなど凄かったですね。もう1人ドン・レオ・ジョナサンも大きさの割に動けてナチュラルな強さがありましたね。
徳山に新日本プロレスが来たとき、選手入場を待って通路の一番前にいましたが、まだ出番でないラッシャー木村が寺西 勇のセコンドでやってきました。人生の中でこれ程、デカイ背中を見たことはありませんでした、大きすぎました。
大きすぎると言えば、やっぱり中学1年の学生服ですね。
中学の3年間での成長を見越して、ひと回りふた回り大きめのを買います。
手の出ない袖は、その都度母親がいい感じで詰めてくれたりしてくれるんですが、肩幅とかはどうすることも出来ないんで、ブカブカの、制服に着られてる感が半端なかったです。
新しい物好きの夫は、若い頃はボーナスが出るたびに家電の新商品を買っていましたが、初期のビデオカメラは大きすぎて、夫が肩にかついで観光地に行くと、それを見た人から「テレビ局のカメラマンが来た」と勘違いされるほどでした。
実家の犬をビデオカメラで撮ろうとしたら、でかすぎるカメラを見た犬がバズーカ砲で撃たれると思ったのか、固まったまま身動き一つしなくなり、せっかくビデオで撮った動画なのに静止画みたいになりました。
私には3つ上の兄貴がいますので、モノは基本お下がりでした。
兄貴が高校に進学する為に自転車を買うことになり、私にお下がり。でも、中3の兄貴の自転車は、小6の私にはデカすぎました。サドルを一番下げても、つま先がつく程度。
大橋さんの家に回覧板を持っていく時にコケて用水路、いやドブに落ちかけました。濡れずにすみましたし、回覧板も死守。
家族にはバレなかったのですが、見ていた大橋のおばさんが、母に後から話して、恥ずかしい思いをしました。
トレンディードラマ全盛の頃、W浅野が主演のドラマの中で使っていた携帯電話。昭和63年。あの時はカッコいいと憧れていました。しかし、今、携帯電話は手のひらサイズになり、あの時の物は、大きすぎたなぁ~と思います。
結婚して10年過ぎた暮れの事、大笑いしました。忘年会から帰ってきた主人が大きな革靴を履き、大きなダブダブの黒のコートを着て帰ってきました。おかしくて大笑い。主人は忘年会の幹事だったので支払いを済ませて帰る時、残っていたコート・革靴を身につけて帰宅したようです。
間違えて主人のコート・革靴を履いて帰った人、どうやって小さなコートを着て小さな革靴を履いて帰られたのかな?ぶかぶかの服もおかしいけど、小ちゃな服を着て帰られたご主人を見たその奥様も大笑いされたことでしょう。
さて、次回3/11も「昭和の 大きすぎる」で行きましょう。
山根さんはやっぱり「馬場さんじゃろぉ」と、先週はアンドレと言っていたんですがいずれもデカい。制服、ランドセル、家、風呂etc.昭和の頃の“大きすぎる話”おまちしております!
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https://www.youtube.com/watch?v=E9LucnoG3GI
またまた山根さんが小っちゃい事に突っ込んでくる「お相手の高橋 裕です」のお相手って誰のお相手か!?って。
昭和の お腹が痛いPART2
2024年02月25日
昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
今週は「昭和の お腹が痛いPART2」で30分。
私が小2の時、近所に美味しい琵琶がなる木がありました。学校帰りに取って食べていたところ、帰ってからお腹が痛くなりました。親に言うと怒られるので我慢していましたが、どんどん痛くなり、夕方、病院に行くことになりました。そこで、琵琶の食べすぎとのことでの便秘の診断を受け浣腸されました。
しかし、翌日は腹痛で足が立たなくなり、その日は木曜日で休診が多く、光市から柳井市まで救急搬送となりました。結局、虫垂炎で、浣腸したことでお腹が炎症。緊急手術となりました。今でも琵琶が食べれなくなりました。
元来お腹は丈夫な方ですが、忘れもしない中学1年生の時の出来事です。当時、給食に牛乳が出ましたが飲まない生徒も多く学校全体で毎日30本以上残っていました。生徒会の先輩達が勿体無いからと部活の生徒たちに配っていましたが、たまたま通りかかった私に可愛い先輩から「牛乳飲んで~」と言われ、カッコつけて3本も飲んだのはよいのですが、家に帰る途中、急にお腹が痛くなり慌ててスーパーのトイレに駆け込んだ思い出があります。
車の免許を取り立ての頃、4歳下の妹を乗せて津和野にドライブに行ったときのことです。帰りに山道を走っていると急にお腹が痛くなってきました。トイレに行きたくても店も何もなく、顔面蒼白で前のめりになり、早く家に帰ってトイレに行くことだけを目指して運転しました。
妹から「お姉ちゃん、頑張って」と励まされながら、やっと家に着き、トイレに飛び込む私。びっくりするくらい、大きなおならが出ました。でも、それだけ。おならを我慢して、お腹が痛くなっていたようです。家族には笑われ、我慢は禁物だなと思ったのでした。
昭和のクリスマスケーキと言えば、バタークリーム。バタークリームは日持ちがするので、12月25日でも26日でも売ってました。そして、どんどん値段が下がっていきます。
我が家は、いつも、2個目のクリスマスケーキを12月25日過ぎに、半額で買ってました。が、小5の時、26日にひいおばあちゃんが亡くなったと連絡が入り、急きょ、当時住んていた静岡県から山口県に帰省することに。慌ててクリスマスケーキを、家族4人で食べたのですが、私は調子こいて1人で半分近く食べたのですが、新幹線の中でお腹が痛くなり大変。人生初の胃もたれでした。新幹線の当時はまだ和式のトイレで、手すりをギュッとつかんで頑張ってました。
やす・きよ漫才、昭和の最強漫才コンビ、2人の掛け合い、スピード、やっさんのきれいにセットした頭をぐちゃぐちゃにするきよしさん、何回見てもお腹が痛たくなるほど面白い漫才です。
お腹がいたいと言えば、盲腸です。小学1年生の時、お腹が痛くなりかかりつけのお医者さんに行き、これは盲腸といわれ大きな病院へ行きました。それから、手術。
その時、院長先生がいなくて、若先生が執刀したと後でききました。そのせいか普通2針なのに4針縫いました。手術後にオナラが出ないといけないと何も食べれないので、オナラが出たときは嬉しかったです。1年生のお腹には大きな傷あとでしたが、今はあとが全然わかりませんね。
さて、次回3/3のテーマは「昭和の 大きすぎる・デカすぎる」で行きましょう。
おさがりのグローブやGパン、友達の家、兄貴のスポーツサイクル、山根さんは一言「アンドレじゃろぉ」昭和の頃の“大きすぎる・デカすぎる話”おまちしております!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=Ph_JUdcWQ2A
今週は「昭和の写真②」
山根さん曰く「一張羅来て、ええ家の前で写真撮って年賀状に載せてたよな」
昭和の お腹が痛い
2024年02月18日
昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
今週は「昭和の お腹が痛い」で30分。
お腹が痛い といえば、小学生の頃の運動会で徒競走の前になるとちょっと痛くなってました。
運動は好きだったし足もマアマア早い方だったので、あれは「武者震い?」「闘争心の強さ」からだったのでしょうか?
あとは結婚を3か月後に控えてた頃に虫垂炎になり、その時の痛さは半端なかったです。
昭和の腹が痛いで思い出したのは、胃潰瘍です。私は新入社員の年に胃潰瘍になりました。原因はハッキリしており、「酒の飲み過ぎ」。
就職して独身寮に入り親元を離れ、仕事は5時終わり給料も貰えるといった環境下、寮は4人部屋だったので同期や先輩達と毎晩酒盛りをしていました。そんな生活をしていたら秋には胃が痛くなり、病院に行くとバリウム検査。結果は潰瘍が出来ていました。
ちょくちょくお腹が痛かったけど病院には行かず、「これは学校で飲む牛乳のせいだ」と、自己申告で担任の先生に「僕だけ牛乳を取り消しにしたい」と伝えると、先生は「牛乳は成長に欠かせない飲み物だから、やめるなら病院の診断書か?親の認印が必要」と言われ、家にある認印を僕が勝手に押して提出しました。翌日から僕だけ牛乳がストップしました。それから数ヶ月後卒業式の前日、牛乳代が親に直線返金されて、何も知らない親はビックリしていましたが、結構なお金だったのか?半分嬉しそうでした!
もう、昭和の男子は誰もが経験している大問題。便所の大に行けない、行けばあだ名は次の日から「う〇こ」に決まってました。
腹が痛くても、ひたすら学校が終わるのを待つばかり、帰り道、出そうになるのを何度もやり過ごし、やっと家までたどり着いた瞬間、気が緩んでアウトの時もありました。プールの授業がある時が最悪で、お腹が冷えるんで100%痛くなってました。
昭和と言えば「食べ慣れないものを食べるとお腹を下すは常識」で、親父が「デコレーションケーキ」を買ってきまして、4人家族の誰もが食べないので、欲を出してペロリ!するとお腹が急降下!
高2の頃、父の転勤で市外に引っ越したのに転校したくなくて、片道2時間かけてバス通してたので、朝食が早いせいか授業中すごくお腹がすいて腹の虫が鳴るんですが、恥ずかしいのでグ~キュルルという音がでないようにお腹を引っ込めたり腹に力を入れたりしていたら、腹筋を使い過ぎてお腹が痛くなり、結局、腹の虫も鳴って無駄な努力でした。
さて、次回2/18のテーマは「昭和の 腹が痛い」で行きましょう。
食べられるかどうか母親が鼻でチェック、試験中痛くなる、笑いすぎて、電車の中で痛くなるetc.
次週も昭和の頃のお腹が痛くなったエピソードをお待ちしております!
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https://www.youtube.com/watch?v=39rr1o_nHV4
今週は「昭和の写真」
山根家のご先祖様・ルーツが明らかに!しかも、その情報は実は…。
昭和のノドがカラカラ
2024年02月11日
昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
今週は「昭和の ノドがカラカラ」で30分。
50年前の高校球児でした。当時は、根性、根性の時代で、ウサギ跳びは跳び放題、水分補給は厳禁でした。
1年生の私達は玉拾いで、球場のトイレ付近に飛んだボールを競って取りに行き、中にあった手洗い用の水道の蛇口に口を着けて、キッチン用のボールタイプの受け皿にトカゲがチョロチョロしていても構わず飲んでいました。
またバックネット裏の油が浮いた淀んだどぶに落ちたボールも取りに行き、表面の油を手でのけ飲んでいました。喉カラカラでした。
今ほど暑くなく最高気温が30度だった昭和60年代でしたけど、校庭での部活動は暑くてたまりませんでした。水を飲んだら疲れやすくなると顧問に言われたんでひたすら耐えて部活動に勤しんだのを覚えております。一応、水筒にお茶を持って行っていましたが、それは先輩のためのお茶でした。
ある日、とうとう我慢ができなくなって、水道に駆け込んで水を飲んだところ、先輩たちの集中砲火を浴びてしまいました。
夏休みの部活の休憩、部活がおわると、喉はからから!!部室に行くのではなく、運動場のすみにあった井戸水を飲みにゾロゾロと皆で行ってました。手押しポンプの取っ手をギーコ、ギーコと、かわりばんこに押して出てくる冷たい井戸水を手のひらで受け顔を洗い、冷たい美味しい井戸水をゴクゴクと飲んでました。からからのノド、体には染みるおいしさでした。
友人の結婚式でスピーチをしたときは、のどがカラカラでした。草案を作り、推敲して空でしゃべれるまで読み込みました。フルコースの料理が手につきませんでした。もう、ガタガタ手が震えまくるのです。
スピーチの順番がきて、マイクを持つ私を俯瞰して見ている私がいました。ちゃんとしゃべってるじゃん、笑いもとってるじゃん、よくやったぜ、私。
席に戻ると震えもおさまり、クーッとワインをあけ、ステーキにかぶりつきました。さすがは東京の結婚式、と思いました
自分は、昭和59年に陸上自衛隊に入隊し、昭和61年9月から12月までの3ヶ月間、陸上自衛隊の中でももっとも過酷な訓練と言われている「レンジャー教育」に参加しました。
教育も残り1ヶ月半を切ると山口県の市街地及び山の中で訓練をします。各自の装備品の中には水筒がありますが、この水は一切訓練が終了するまで飲めません。もちろん毎回水は新しい水です。
この水は負傷している方や国民の人たちに与える水なので我々は一切口にすることは無かったです。山地を歩き回りますのでもちろん喉がカラカラです。最終手段では田んぼの水や雨水、水たまりの水を飲んで喉を潤していました!
3ヶ月の訓練を無事に修了して見事レンジャーの一員になりました。
「水を飲むとスタミナが無くなる」「どれだけ汗をかいてもコップ1杯も汗なんてかかないんだ!!」という、精神論を150%を体現させられてました。特に忘れられないのは中学1年生の時の、真夏の部活の練習の時です。
沢山走って、暑くて、ノドもカラカラ。でも、部活終わるまでは水も飲めない。それでも限界だったので「スミマセン、トイレ行ってきます」とトイレに行くふりして、手洗い場の水をたらふく飲みました。
スッキリしてグラウンドに戻ると、1人の先輩が「お前、水飲んでたやろ♪」と言うので、当然「いえ、飲んでません」と答える私。すると先輩が「ジャンプしてみ」と言うので、ジャンプをすると、私のお腹から「チャポン♪チャボン♪」と、水腹(みずばら)の音が…
嘘を付いた罰&勝手に水を飲んだ罰として、きっちり罰走されられ、更にノドがカラカラになる羽目に。
さて、次回2/18のテーマは「昭和の 腹が痛い」で行きましょう。
今日の“生水飲む”から派生したテーマ。山根さんは道端に落ちているパンを食べても腹が痛くならない、緊張してお腹が痛くなる、う〇ちを我慢して、突然盲腸になったetc.先週に引き続き、ご昭和リスナーの底力を見せてください!
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今週は「昭和の予算オーバー②」
ぜひ、こっちもご覧ください!
昭和の掃除 PART2
2024年02月04日
昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
今週は「昭和の掃除 PART2」で30分。
小学時代、大掃除の前の日に先生から「自宅にある新聞紙を持ってきてください」と言われたので新聞紙を持っていきました。先生がお手本で新聞紙を濡らして窓ガラスを拭くと、あれだけ汚れていた窓ガラスがピカピカになり、僕たちは友人たちと競い合うように我先に窓ガラスを綺麗にしていった思い出があります。
中学の時に学校の教室の掃除をするわけですが、机を後ろに下げたらかなり広い空間ができました。真面目に雑巾と自由ぼうきを使って掃除した後、その自由ぼうきと雑巾を使ってアイスホッケーごっこをしてました。
西武ライオンズファンの私は当然「チーム国土計画」で、もう一人のP君は「チーム王子製紙」を気取ってアイスホッケーごっこをしてたのを覚えております。1回も巡回の先生にばれなかったのが、我ながらすごかったなと思ってます。
先週の放送を聞いて「昭和の掃除」でもう1つ思い出しました。
それはレンタルのモップです。水拭きのモップと違い、化学の力でホコリを吸着する画期的な掃除道具でした。しかも、今までにないモップの先だけ取り替えるレンタル方式です。家庭にレンタルが入って来た先駆けではないでしょうか?
親がいない時に交換するおばさんが集金に来てしまうことがあります。そんな時、子供でもお金が払えるように集金用袋が用意してあって、それで払っていました。もちろん、新聞代用、牛乳代用の袋もありましたよ。
交換の前の日にまだモップがきれいだと、「もったいないから、どこでもいいから拭いてきて~」とよく言われてました。
小中高と福井県の海辺の町で過ごしました。昭和の掃除で思い出したのは、6月末の町全体での海岸(砂浜)掃除です。通称=浜そうじ。
夏になると海水浴客で溢れる町でしたので、夏季民宿や海の家を営む者も多く、(観光協会の号令で)海開き前に砂浜を大掃除するんです。
6月末の砂浜は、冬の荒波で打ち上げられた海藻や流木、魚の死骸、等々、ゴミの山。そして、そのゴミの山全体の5%位は、ハングル文字の書かれた瓶や漁具等、韓国(?)からのモノでした。「この海原の先は朝鮮半島へ繋がっているんだ」と改めて再認識する年1回の行事でした。
夫(昭和37年生まれ)は大学進学で上京。大学1年生のゴールデンウイークに新幹線の車内清掃のアルバイトをしました。新幹線(0系)がホームに入ると、大きな袋を持って、空き缶、お弁当のゴミなどを回収、特にジュースやコーヒーが床にこぼれていたら、掃除が大変だったらしいです。
そんな中、ホームで次の新幹線の到着を待っていると、見た事あるなと言う人が近づいて来ます。よく見ると柴田恭平さんで、主人に「ご苦労さん!」と声をかけて、颯爽と去って行きました。掃除の仕事は大変でしたが、その言葉には感激したと今でも話してくれます。
さて、次回2/11のテーマは「昭和の ノドがカラカラ」で行きましょう。
山根さんが是非ともやりたいというテーマ。先生、喉が渇きました、水飲んでいいですかぁ。ダメだぁ、唾飲んでおけ!隠れて水飲んだよなぁ。喉が渇いてやっと自販機見つけたけど10円足りない…etc.
昭和の頃の「ノドがカラカラになった」話をお待ちしてます!
ご昭和リスナーの底力を見せてください!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=V4DbXxB3E94
今週は「昭和の予算オーバー」
渡辺アナの疑惑話がさく裂してます。
昭和の 掃除
2024年01月28日
昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
昭和の掃除で一番に思い出すのはテレビのプロレス中継で、外人レスラーがもらった花束で日本人レスラーをしばき倒し、散らかった花を、三菱掃除機「風神」が綺麗に掃除するという毎週お約束のシーンです。子供ながら強靭なプロレスラーを花でしばいた位でダメージはないだろうにと思ってましたが、スポンサーの都合ですよね。
昭和の掃除といえば、ヒゲダンスのバケツ回し。小学6年生の頃、バケツ回しチャレンジなるものが流行りました。先生が他の掃除場所の見回りをしている間を狙ってやっていました。
無事に回し終わり、安心してバケツを置こうとした瞬間、なぜかふらついて廊下に水をこぼしてしまう者もいたなあ。また拭かないといけん。
昭和の掃除で思い出したのは、車の車内掃除用に買った充電式掃除機です。この掃除機、なんと、充電時間=8時間とかで、使用時間=5~10分というものでした。しかも、充電しながらは使えないのです。
リチウムイオン電池が未だ無い時代、男にとって車の掃除が欠かせなかった時代、コイン洗車場も未だ無かった時代、こんなチンケな性能の掃除機でも「無いよりは、かなりマシ」でした!
高校を卒業して一人暮らしを始めた頃、掃除機を持ってなかったので、ほうきとちりとりで三畳一間の部屋を掃除していましたが、何かの本で畳に茶殻を撒いてから掃くと埃が立たないと知って、やってみたら本当に埃も立たないし、お茶のいい香りもして役に立ちました。
当時はペットボトルのお茶も売ってなかったし、流し台もない部屋に住んでても、ちゃんと急須にお茶っ葉を入れてお茶を淹れてたからできた掃除の裏ワザでした。
昭和40年頃、小学校の掃除で、ぬかぞうきんを使っていました。布で作った袋に、ぬかを入れて雑巾にしていました。田舎の小学校(久保小学校)だったので、ほとんどの人が農家で、ぬかは、家にたくさんありました。
当時の学校の廊下は板張りの廊下だったので、ぬかぞうきんで磨いて廊下の艶を出していました。私が教員室の前の廊下の掃除の担当だった時、普通にほうきを使って掃除をした後、残った時間で教員室の入口の所、30cm四方を集中的に磨き上げていました。
「昭和の掃除」と言えば、中学校の掃除の時間を思い出しました。掃除の時間には椅子を机の上に載せ、机をつって教室の後ろに揃えます。(名古屋では、机を釣り上げて移動させることを“机をつる”と言います。)そこで、できた空間がYくんのステージです。
当時、ザ・ベストテンが始まり、中学生男子の間で世良公則&ツイストが絶大な人気を誇っていました。Yくんは「銃爪」を長いホウキを使って見事なマイクパフォーマンス!!みんなの人気者になっていました。大目に見ていた担任の先生も案外好きだったのかもしれませんね…
小学校時代の冬の掃除の時、ブリキのバケツをさげて、泊まり込みの学校職員さんのお風呂の前日の残り湯をもらいに行き、雑巾を洗うのに使っていました。今でも生ぬるいお湯の感触や皆で拭き掃除していたころのことを思い出します。
昭和57年、20歳の頃親に買ってもらった中古車。綺麗にしていたのでドキン!(土足厳禁)で、少しでも土が入ると掃除したり煙草を吸っていたので、少しでも吸殻があると車内灰皿を掃除したりしていました。
さて、次回1/28も「昭和の掃除」で行きましょう。
近所の公園の掃除、溝掃除、風呂掃除、モップ、雑巾、吸わない掃除機、トイレ掃除etc.昭和時代の掃除の思い出・エピソードをお待ちしております。
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=ksA-AxR21lk
今週は「昭和の寄せ書き」。
山根さんの口癖「テレビが言ってたんだけど…」。この度、何って言っていたのか!?お楽しみに。
昭和の写真3
2024年01月21日
昭和46年生まれ52歳、高橋裕です。
私が小学生の時にスーパーカーブームがありました。当時、今の周南市文化会館の場所にあった「毛利プラザ」でスーパーカーの展示会が行われ、父親と一緒に見に行きました。ランボルギーニカウンタクLP400。テレビや雑誌で見ていたスーパーカーの実車が間近に見れたので凄く興奮し、楽しかった事を思い出しました。
鹿野小学校4年の時の自転車登校のテストの時に撮った写真。
4年生から遠方の児童は自転車通学が出来るようになります。その許可を貰うための試験が校庭で行われていました。
8の字やクランク、安全確認などをみんなが見ている前で1台ずつ走ります。合格すると泥除けカバーにステッカーを貼ってもらい完了。落ちると受かるまで再試験でした。
私の父は地元の美術作家連盟に加盟している写真家なのですが、それ故に、写真やカメラと名の付く物には妥協を許さない人でした。
ある日、私が購読していた「学研の科学」にピンホールカメラが付いてきました。雑誌の付録とは言え、印画紙と現像液が付いている本格的な物です。父はそれを見ると私以上に熱を上げてしまい、それから写真の特訓が始まりました。
まず夜中に叩き起こされ、印画紙が光に反応しないよう真っ暗な部屋の中、手探りでカメラにセットする練習に始まり、撮影から現像に至るまでその様子はまるで写真版・巨人の星。
その甲斐あって、私は立派なカメラ小僧に……なるわけもなく、しばらくの間、写真はこりごりになってしまいました。
昭和50年、大島商船卒業前の実習は、帆船・日本丸でハワイ・ホノルルに行きました。
その時、友人とワイキキビーチに行き、ビキニの女性と写真を撮ろうと話して、まず、ビーチに行く前に店に行き、ジーパンの半ズボンを買ってその場で着替えてビーチに行きました。
ワイキキビーチでビキニの外国人女性を見付け声をかけて、一緒に写真を撮ってもらいました。女性に「写真を撮りたい」と言うと、何も言わずに喜んで一緒に写真を撮ってくれました。
吉田拓郎さんが22歳位の時、萩市民会館でコンサートがありました。高校生だった私が人生で初めてやったアルバイトが、拓郎さんの楽屋担当でした。「楽屋を出る時にスニーカーを履いている拓郎さん」と「東萩駅のホームでファンにサインする拓郎さん」の写真を持っています。
当時、大の拓郎ファンだった私にとっては最高にラッキーなアルバイトでした。バイト料がいくらだったかは覚えていません。
さて、次回1/28は「昭和の掃除」で行きましょう。
教室の掃除、部屋の掃除、耳掃除、昭和の掃除機は音がうるさいetc.昭和時代の掃除の思い出・エピソードをお待ちしております。
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=0IV10s3lwZA
今週は「昭和の眠れない②」。
“水を口に含んで霧吹き状に吹く”“フーセンガムを3個食べてでっかいフーセンを作る”そんな練習したなぁ
昭和の 我が家の常識PART2
2024年03月24日
昭和の 我が家の常識
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2024年02月25日