ご昭和ください ブログ
昭和の 小学生の頃に欲しかったもの PART3
2024年09月15日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は「昭和の小学生の頃に欲しかったもの PART3」で30分。
ひさびさの3週ぶち抜きのテーマ。
清涼飲料メーカーのキャンペーンで、流行ったヨーヨーが凄く欲しかった記憶があります。確か、3種類あって一番いいのが欲しかったのですが、2番目のグレードのヨーヨーを買ってもらいました。
萩市の端っこに住んでたのですが、なぜかヨーヨーチャンピオンが2回も来てくれ、最初は小学生の低学年の頃だったのであまり記憶は無いのですが、2回目の時は来ると分かった時から、近所の子供たちとのコンテストに勝ちたくて一生懸命練習しました。「ブランコ」と「犬の散歩」の課題はクリア出来たのですが、「ループ」の回数で負けてしまい、景品のヨーヨーは残念ながらもらえませんでした。
悔しくて泣いてたらチャンピオンがやってきて、使ってたヨーヨーにサインを入れて手渡してくれました。うれしくて、また泣いてしまいました。
その昔、学研の科学と学習という本がありました。なんといっても付録が魅力的で、私が購読していた学習の付録は、国語・算数・社会などの学習道具のようなものでした。それに対して科学の付録は、実験道具のようなものが多く、ドラえもんの秘密道具みたいな感じで、それが欲しくて欲しくてたまりませんでした。しかし、お金がかかる事で、両方買ってもらうことなど出来ず、科学の付録が当時両親には、おもちゃのように思えたのか「学習なら買うてもええ」と言われた記憶があります。
小1の頃、ダッコちゃん人形がものすごいブームになっていました。我が家では母親がどうにかして手に入れてくれようとしていました。母の妹と「あと何日したら買える」とか話していたのを覚えています。待ちに待ったダッコちゃんを私は足に抱っこさせて近所のお使いに行っていました。今、思い出しても恥ずかしい。
私が小学生の頃に空前のボウリングブームで、テレビでは連日の様に中継があり、近所のボウリング場では早朝ボウリングってのも。そのブームはゲームにも及び、ボウリングゲームが人気で、持ってる友達の家にみんなが集まる…誰もが欲しかったゲームでした。ある日お金持ちの友達が「新しいボウリングゲームを買ってもらったから」って自慢。友達数人で遊びに行くと家の縁側に大きなピンを立てプラスチックのボールを投げる…ゲームとは呼べない物に全員唖然となりました。
小学5年の時、ブルース・リーが流行りました。
ヌンチャクが欲しくて友人3人で山口市内で売っている所を探したけど見つからず、結局、新聞紙を丸めたもの2個に紐を通してセロハンテープで貼り全体を油性マジックで黒く塗って遊び、破れては作り直しました。特にH君はブルース・リーのモノマネが上手くて学芸会の時は先生、保護者、全校生徒に披露したら大受けでした。
さて、次回は「昭和の叱られた怒られた原因」で行きましょう。イタズラした、勝手にケーキを食べた、遅刻した、宿題忘れた、風呂を空焚きしたetcいろいろあると思います。原因とその後どうなったかエピソードを教えてください!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=X72oxRn1qjw
今回は「昭和の17の夏」
おまけ映像は「焼き肉のタレでかき氷を食べてみた」ぜひ!ご覧ください~。
昭和の 小学生の頃に欲しかったもの PART2
2024年09月08日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は「昭和の小学生の頃に欲しかったもの PART2」で30分。
「昭和の小学生の頃に欲しかったもの」
それは、「フラッシャー付き自転車」です。
テールのウインカーランプが流れるように光り格好良く小学生男子の心を鷲掴みでした。
さらに、フレームのセンターにレバー式の変速機
フロントにはダブルヘッドライトが装備されていました。当時、家には動かなくなった自転車2台を組み合わせて動くようにした自転車しかなく、4万円位した新車など夢のまた夢でした。豊かな家庭の友達が得意げに乗っているのを羨ましく見ていたのを覚えています。
欲しかったもの…何と言っても…あの…電子フラッシャー付きの自転車。流れる電子フラッシャーによる方向指示器、コンソール型5段変速機、デュアルヘッドライト、ディスクブレーキ…あまりのかっこ良さによだれが出そうでした。しかし、買ってはもらえず、中途半端な方向指示器だけ買ってもらって後付けしましたが、満足度は低かったです。
小学生の時に欲しかった物。当時、流行っていたローラースルーゴーゴーです。近所の子が持ってていて欲しくてたまらなく、少しずつためていたお年玉で買いました。真っ赤なローラースルーゴーゴー、近所で得意げに乗り回していました。
私が欲しかった物は、友達の家にあったボードゲームです。「人生ゲーム」に「億万長者ゲーム」欲しかったです。でも、ウチでは買ってくれない。
なので、10歳の時に、丸々書き写すことにしました。友達の家の“人生ゲーム”を書き写しましたが、デカい紙がない。オカンに言ったら、くれたのはカレンダーの裏紙。デカい模造紙が欲しかったですが仕方ないです。
車型のコマは消しゴムで代用。結婚して子供が生まれると刺すピンは、マチ針で代用。
ルーレットは作れないので、サイコロで代用。しかも、「サイコロキャラメル」の空き箱でした。
涙ぐましい努力だったと思います。
が、どうにもならなかったのが、ドル紙幣。
自分の手書きは、かっこ悪くて、やっぱり全然ダメでした。ほどなく、マイ人生ゲームに飽きてしまいました。
私が小学生の時に欲しかったのは「自分専用のラジオ」です。
小学5年生の頃、中2の姉が試験勉強をしながらオールナイトニッポンを聴いていました。
亀渕昭信さんや高島秀武さんがパーソナリティをやってた頃で、姉のお気に入りはあまちゃんことあまいくにおさんという方でした。
昭和45年当時、うちにはラジオは一つしかなくて、私のお小遣いで買えるような安いラジオは売ってなかったと思います。
今みたいに気軽に見に行けるような電機屋さんも少なかったような。
小学生の時に欲しかったもの。それは、「サンダーバード秘密基地のプラモデル」です。
今井科学から発売されていたものです。当時、今井科学が倒産してしまったので幻のプラモデルだったかと思います。サンダーバード2号単体では遊んでいましたが、秘密基地のヤシの木が倒れ、発射台がせり上がって発射されるギミックにあこがれていました。友達も皆、欲しいなぁと話題になっていたプラモデルです。
小学校の低学年の頃の運動会で、ゴダイゴの「銀河鉄道999」の曲に合わせてダンスをしました。踊ることが大好きだった私は、家族にも踊りを見せたくてどうしてもゴダイゴのそのレコードが欲しくて欲しくて。母にねだって買ってもらいました。小学生が欲しがる曲としては、ちょっと渋すぎですね。
さて、次回も「昭和の小学生の頃に欲しかったもの」で行きましょう。久々の3週連続テーマ。テレビ、自家用車、おもちゃ、ラジコン、野球盤etcエピソード交えて教えてください!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=x1qkQcegn
今回は「昭和の氷④」
山根さん、高校時代、後輩の女の子を得意げにスケートに誘ったけどその子はマイスケート靴持ってるほど上手い子で逆にその子に教えてもらったとか。。。
昭和の 小学生の頃に欲しかったもの
2024年09月01日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
まず、ラジオの前に、今日は、ぜひ、水曜日更新のYouTube動画を見て欲しい!
あの伝説の深夜番組「金夜はロック座」の名場面がラッシュで出てます。山根さん&渡辺三千彦さんが若い&細い!いや~勢いがありますね~。ぜひ、ご覧くださいませ。
さて、番組は「昭和の小学生の頃に欲しかったもの」で30分。
小学1年の時は 「魔女っ子メグちゃん」の筆箱が欲しかったですね~。クラスでも結構持っている人がいて、母親にねだったけど、その時はすでに「ミラクル少女リミットちゃん」の筆箱を持ってたからダメでした。でも、メグちゃんとリミットちゃんではダンチでメグちゃんの方が可愛いんですよね~。
私が幼稚園の頃に、欲しくて欲しくてたまらなかったものが、TVゲームの「ブロック崩し」です。
ある日、従兄弟の家に行くと「ブロック崩ししようぜ!」と言われ、「なんだ?なんだ?」と、リビングに行くと、何か、テレビにTV番組ではないものがブラウン管に映っているではありませんか!
しかも、テレビの前に置いてある機械のダイヤルを回すと、画面の中の「板」を自分で思う様に動かせ、球をぶつけてブロックを消していける。もう、一発で虜になってしまいました。それ以来、何度も何度も親にねだってはみましたが、当然、買ってもらえるはずもなく、憧れ続けていました。
小学生の時にほしかったもの。それは、漫画の通販に掲載されていた少しエッチな商品「透視メガネ」です。小学校も高学年となると次第にそっちの方の関心も高くなり、妄想を膨らませていたことを思い出します。
買ってもらえなかったものは、ゲイラカイトという、外国製の凧です。
「ヒューストンからやって来た!ゲイラ・カイト!」凧がビュンビュン飛ぶCMを見た私は
「お父さん、ゲリラカイト買って」(ゲリラって思ってた)
「そねぇなもん、ワシが作っちゃる!」言って、すぐ作ってくれました。あんまりビュンビュン飛ばなかったけど、あげ方が悪かったかなぁ。
「カラーのタイツ」が欲しかったです。タイツが登場したのは小学校3年生くらいの時でした。
それまでは冬には肌色の長い靴下で、太もものところを幅広のゴムバンドで留めていました。
ハイカラな友達が長めの厚手のセーターに水色のタイツを履いていて私も欲しかったです。
当然、親は買ってくれません。
あんな格好がしてみたかったです
小学校の高学年になるとゲーム&ウォッチが大流行。友達が持っているゲーム&ウォッチがうらやましくて私も「いつか買ってやる」と思っていましたが先立つ物がない。お正月のお年玉をためたら買えると思い我慢していました。
昭和56年、私は「ヘルメット」を買い妹は「マンホール」を買いました。帰りのバスの中で箱を開けて二人でゲームしたのを覚えています。
さて、次回も「昭和の小学生の頃に欲しかったもの」で行きましょう。店舗兼住宅で暮らしていた山根さんは“玄関”が欲しかった、3人兄弟の末っ子だった裕少年は“自分の部屋”みなさんも小学生の頃に欲しかったものをエピソード交えて教えてください!
そして、冒頭でもご案内したご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=483wvBmBTb0
今回は「昭和の氷③」
「金夜はロック座」の名場面もご覧ください!
昭和の 17の夏2
2024年08月25日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は「昭和の“17の夏”PART2」で30分。
十七歳の夏休みはキャディのアルバイトをしていました。ゴルフ場でキャディバッグを乗せたカートを運転して、お客さんにクラブを渡したり、グリーンでピンを持ったり、時にはOBのボールを探しに山の中に入ったりして、走りまわっていました。
キャディのバイトで良かったのは、お客さんが茶店でジュースやお菓子を買ってくれるんです。それと、昼食はいつも食堂のカレーなんですが無料でした。高校3年間アルバイトで稼いで、コンポーネントステレオを買いました。
17の夏に熊本に戻る大学生の姉にくっついて在来線で熊本へ遊びに行きました。
山口にはまだなかったMで始まるハンバーガー店に初めて連れてってもらってハンバーガーを食べて感動しました。
ちょうど熊本にチューリップが来るというので、明日はコンサートに行こうかと姉に言われて喜んでいましたが、持って行った宿題のドリルをほとんどやってなかったのを見た姉が
「このありさまでコンサートなんてとんでもない!」と言いだしがっかりしました。
でも、今思えば人気のチューリップの当日券なんてなかったと思います。
次の日は、なぜか熊本の親戚の家に連れて行かれて初対面なのに“説教”されました。熊本の名所も行ったと思いますが、姉に怒られ親戚に説教されたことだけ鮮明に憶えています。
私が17歳の頃は、第二次F-1ブームでしたので、お小遣いやバイト代を田宮模型のプラモデルに注ぎ込んで、細かいパーツも全て着色したり、スリックタイヤのリアリティを追求するため、やすりで削ったりして何日もかけて作っていました。
9月生まれなので「17の夏」と言えば、高校3年の夏。部活も引退し、開放的な夏でした。
KRYラジオの深夜番組で、出演したいリスナーを募集してたので、応募したら当選してしまいました。緊張し過ぎて、なにを喋ったかも記憶になく、放送当日も、自分の声の気持ち悪さにラジオを速攻で切ってしまい、全くなにも覚えていません。
ただ、当日集まった他のリスナーさんとの会話は、すごく楽しかった記憶はあります。
あと、その年の24時間テレビで、黄色いTシャツを着て、萩のスーパーや市役所で募金活動もしました。ほぼ男子校だったので、他校の女子生徒との会話は、ホント楽しかった。
高校生の時、私は写真部で、同じ写真部の一学年上に彼がいました
写真を焼くとき、二人きりで暗室に入ることはしょっちゅうでしたが、“おぼこい”二人のこと、取り立てて言うほどのことは起こりませんでした
それが、私が高校二年のとき、彼の手が肩に触れました。それだけのことでしたが、もう『キャー』でしたね。暗室から出た私の様子がいつもと違うので、友人は良からぬことを想像していたようです。
あの頃は純でしたね。
さて、次回のテーマは「昭和の小学生の頃に欲しかったもの」で行きましょう。新しいラジコンキット、ゲームウォッチの新しいゲーム、靴と一緒になっているローラースケート、ギャラクシーヨーヨーetc高橋少年は欲しいものいっぱいでした!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=YX6t9_1A1L4
今回は「昭和のスプレー②」
「KRYアナウンサーが赤か青かコードを切ってみた大会」も開催!6人の性格が出でますよ~。
昭和の 17の夏
2024年08月18日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
本日8/18は山根由紀夫さんの65才の誕生日。いやぁ、めでたいめでたい。
そんな中、今日は「昭和の“17の夏”」で30分。
昭和56年高校3年生の私は、部活は引退したのですが、生徒会長だったので、夏休みは「運動会」と「農高祭」の準備等で学校へ通う毎日。「生徒会室」を自由に使えたためラジカセを持って行き楽しく過ごしていました。
ただ、8月後半に、映画「ねらわれた学園(主:薬師丸ひろ子)」を観に行く約束をしていた彼女に、思いっきりフラれ、今でも『私の青春をかえせぇ~!!』と、毎年の夏、思い出します。
高校2年生17歳、青春真っ只中の私は、チェッカーズに夢中で、雑誌・レコードを買い、山口市民会館、徳山市民会館(当時)、広島等、コンサートに行ってました。
進学高に通学していたので、17歳の夏は、毎日毎日、勉強。暑い四畳半の部屋で、扇風機だけで勉強、勉強の日々でした。
が、高校に行く途中で、隣の高校の女子高校生に、人生初ラブレターをもらい、衝撃的な夏でもありました。待ち合わせの場所に行きはぐれてしまい、あとで、女子高校生に「待ってたんです、残念でした」 と、あっけなくふられてしまい、撃沈の夏でもありました。
17歳といえば昭和60年、夏の高校野球決勝のPL対宇部商業を思い出します。
当時は甲子園の決勝と登校日が重なることが多く、私は「お腹が痛い」と言って親に許しをもらい学校を休み、テレビ観戦をしていました。
自分が17才の時は昭和45年で広島市の高校2年生でした。丁度、大阪万博の年で、夏休みに父親と万博に行きました。母が紳士服の縫製工場のパートに出ていて、本社が大阪にあり従業員の家族で希望すれば社長の家(ビル)に泊めて貰えるとのことで、宿泊代&食事代は無料で泊めて貰いました。ホテルの予約が取れない中安心して見学に行けました。
ズバリ、大阪万博です。運のいいことに修学旅行先になりました。万博に連れて行ってもらえるような家ではなかったので、超ラッキーでした。
当時、新幹線は東京、大阪間のみ開通。万博で頭がいっぱいだったのか、列車の記憶がありません。宇部から大阪までかなりの時間をかけて乗って行ったと思います。万博会場に着いて最初に目に飛び込んできた「太陽の塔」のインパクトは今だに忘れられません。それはそれは巨大でヘンテコでした。「月の石」を見る行列に並ぶ時間なんて修学旅行生にはありません。ひたすら行列をしないで入れるパビリオンを巡りました。
さて、次回も「昭和の17の夏」で行きましょう。高橋少年の17の夏は、大手スーパー2階の子供服売り場の定員のアルバイト、ぐちゃぐちゃに荒らされたワゴンセールの服をせっせと畳んでました!昭和の17の夏の思い出・エピソード、お待ちしております!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=QfClsQemTe0
今回は「昭和のスプレー」
食卓に現れたハエを撃退するのに親父はスプレーを噴射、家族は新聞紙を広げて食卓を守るという連携プレーの話、よくコントで見たなぁ。
昭和の 氷PART2
2024年08月11日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は「昭和の氷 PART2」で30分。
昭和56年、就職した会社の独身寮で先輩達と呑み会がありました。酒は先輩が、安~~~いジン等を買って来るのですが、私は氷を調達する係で、まだ、コンビニも無い時代、スーパーでカチワリ氷を買うと、一袋1000円するのでブロックの氷を500円位で買いました。酒を買った方が安いやないかい!そこで「ジン自体を凍らしたら氷は要らなくなるかな」と思い、ジンを冷凍庫に入れましたが、アルコールなので凍りません。でも、氷かけのトロトロ状になって、口当たりがよく先輩達に大好評になりました。
その昔、下松駅前から中市付近で土曜夜市というものが夏に行われてました。中市付近の夜市はとてもシンプルだったけど、氷の中にお花が入った氷柱花が飾られていて、歩行者が涼を求めてそれを触っていたのを覚えております。
昭和の夏の夜は涼しかったから氷柱花は結構 長い間飾られていたけど、令和の夏の夜だったら1間弱で溶けてしまいそうですね
私の高校3年最後の夏は審判員へお茶出し当番をしました。お茶と一緒にオシボリを出すのですが、審判員のかたがオシボリで滝のように流れ出た汗をぬぐうと、とても気持ち良さそうに「ありがとう」と言ってくれました。ヤカンのお茶を冷ます為に大きなタライに氷屋さんから運ばれてきた氷を入れて冷ましておくのですが、少し小さくなると、別のバケツに氷を入れ少しでも涼しくなってもらおうとギリギリまで氷水にオシボリを浸けていました。
中学生だった時に宇部にスケート場ができました。生まれて初めてスケートをしました。それはそれは大人気でした。父兄同伴じゃないといけなかったので仕方なく父に付いてきてもらっていました。
入場までは長い行列。
部活はテニス部で私は補欠だったのですがレギュラーの同級生が手すりにつかまって恐る恐る滑っていたら足だけが先に行ってしまい肩を脱臼。試合に出られなくなって顧問に叱られていました。
関西に住んでいた小学生の頃、駄菓子屋さんでかき氷を売っていました。お皿は、ウエハースのような物で出来ていて全部食べられるのです。早く食べないとフニャフニャになりますが、エコですよね。もう一度食べてみたいなぁ。
私が幼稚園の頃、家の近くの商店の前に「かき氷の自動販売機」が設置された時は衝撃的でした。
味は「イチゴ」「メロン」「レモン」の3種類だったと思います。自販機のバナーの写真も3色が凄く映えていて、胸がときめきました。
母親をねだり倒して「イチゴ味」を購入。ついでに母親は「メロン味」を購入した記憶。お金を入れると、白いカップが「ストン」と下りてきて、斜め上から氷が「シャーッ!!」と噴出され、最後に上から蜜がかかって終了。全てが「オートマチック」で行われるという事そのものに、限りない満足感を覚えました。
さて、次回のテーマは「昭和の17の夏」で行きましょう。私高橋は昭和63年が17の夏。ギリギリ昭和。伊豆の白浜に電車で男4人で出会いを求めて出かけて女の子の足元にビーチボール転がして「すみません、取ってください~」なんて声かけて。昭和の17の夏の思い出・エピソード、お待ちしております!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=nWe0vhJLwco
今回は「昭和のやきそば」
私高橋は休みの日でも起きたら襟付きシャツにすぐ着替える…そんな話になっています。
こちらもどうぞご覧ください!
昭和の 氷
2024年08月05日
昭和46年生まれ53才、高橋裕です。
今日は「昭和の氷」で30分。
私が子供の頃の冷蔵庫には自動的に勝手に氷を作ってくれる製氷機機能は皆無で…
夏休みには4つ年上の兄貴と氷の争奪戦でした
それを見かねた母がタッパーに水を入れ常時大量の氷を作り置きしてくれ、私達兄弟はタッパーの氷を小さめの寿司桶に落とし、
これまた小さめのアイスピックを使用して丁度いいサイズの氷にして頬張っていました。
子供の頃、宇部線の駅前に住んでいた時に、駅通りに冬は肉まん・あんまん、夏はかき氷を売っているおじいさん、おばあさんのお店がありました。
親にかき氷(あの頃はすり氷と言ってたような)をねだって金のボウルを持参して「3人分下さい」とか言って買いに行っていました。家に急いで帰ったら皆でボウルにスプーンを、突っ込んで食べていました。
昭和の氷と聞いて思い出すのが「氷一貫目」です。子供の頃、お盆になると母方の祖母の実家があった上関町へと墓参りに行くのが家族行事でした。そのお宅のある集落にはお店が無かったので、ビールやジュースなどをたくさんクーラーボックスに入れて、こちらから持って行っていました。今のように保冷剤も無かったので、まず近所の製麺所に大きな氷を買いに行っていました。「氷一貫目下さい!」と言うとご主人が冷凍庫から大きな氷を出して来て、ノコギリでその寸法にザクザクと切っていくのが面白く見えました。その氷をクーラーボックスに入れて持ち帰りジュースやビールを詰めていくのですが、遠足のような気持ちで凄くワクワクしたのを覚えています。我が家でクーラーボックスを使うのは年に一度、この日だけだったので特別な日って感じもありましたね。
私が幼稚園や小学校低学年の頃、我が家には冷蔵庫は無く、代わりに台所には、内側の所々がブリキ張りで透明ガラスがはめ込まれた木製の戸棚のような物がありました。当時、町内には必ず氷屋が一軒あり、親が1貫目単位で買って来ていました。私も時々ついて行っていましたが、氷室から切られた氷を出していましたが、時には目の前で氷用のノコギリで氷を切るのを見ることもありました。氷は木製の食品保管庫用の氷でした。
昭和40年ぐらいの頃の父の話です。
林業の父は、仲間と当日木材を山から搬出するため、ウインチ(ワイヤーで木材を吊り上げる機械)を使用していたのですが、オーバーヒートで止まってしまったらしく、いつもは、沢の水を使って冷やすそうですが、白い煙ばかり立ち込めて、全然効果がなかったため、悩んだ挙句、『氷』を使う。という事になったそうです。
父達は、軽トラいっぱいに"木くず"と"ゴザ"をあるだけ積んで1時間かけてふもとの"製氷工場"に取りに行って、何とかしのいだという“武勇伝”を夏になると、姉と私に話していたことを思い出します。
姉は、“2時間待ったら冷えたんじゃないん?”と相変わらずでありましたが…。
私が子供の頃の冷蔵庫は、氷を作るところが、冷蔵庫の中の上にあり簡単な構造でした。アルミのケースの中に、格子状になった金具が入っていて、水が固まったら、テコの要領でレバーを引っ張ります。ガシャっと音がしてバラバラになった氷ができます。氷を作るところがむき出しになっているので、すぐに霜がいっぱい付いていました。
私は高専一年の夏休みからレストランでアルバイトをしていたのですが、私が初めに任された仕事はお冷や用のグラスに氷を用意する事。
当時まだお店に製氷機がありませんでしたので、氷屋さんから届くブロック状の氷をアイスピックで割って一つ一つ入れて用意を。最初は氷のサイズがマチマチでしたが、郡の目とアイスピックの角度が合えば均等なサイズが仕上がる様に。そして氷屋さんの氷って透き通っていて溶けにくかったのを覚えています。
私が18才の時の昭和57年。
祖母を萩まで車で迎えに行き、下関まで連れて行きました。車にあまり乗った事が無かったおばあちゃん。車酔いをしたらいけないと、マヨネーズの空のチューブに水を入れ、氷らせた物を持って車に乗って来ました。
途中、何回も、チューチューと吸っていました。
車酔いもせず、無事に下関に到着しました。
さて、次回も「昭和の氷」で行きましょう。
山根さん好みの冷凍怪獣の話はもちろん、昔の1ドア冷蔵庫、かき氷、氷まくら、ウイスキーのまあるい氷etc昭和の頃の“氷にまつわる話”をお待ちしております!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
こちらもどうぞご覧ください!
昭和の スプレーPART2
2024年07月11日
昭和46年生まれ52才(7月16日で53才)、高橋裕です。
今日は「昭和のスプレー PART2」で30分。
前回の毒霧の話で思い出しましたが、
昭和の時代劇を見ていると、けが人が運び込まれると、医者が焼酎を口に含んで傷にプワーッとスプレー状に吹きかけて消毒するシーンがよくありました。ちょっとかっこいいのでやってみたかったですが、今思えば口の中の歯周病菌も一緒にスプレーする感じじゃないかと思うと、はたして消毒になっていたのか心配になります。
私の通っていた高校は、入学当時、男子は、丸坊主の決まりでした。一学期の終わり頃、髪型は、丸坊主でなくても良い、校則が、緩くなり、みんな髪型を、7・3分けにしたく、髪の毛が伸びると、無理矢理、スプレーで、ガチガチに固め、7・3分け風に、努力をしていました。ドライヤーをかけすぎで、髪の色が、赤茶色に変わっていました。
体育の授業が済んで着替える時、教室のアチコチで8×4をシュッとする人が出始めました。〝いかにも女子力高い〟という感じがするので 私も買って 女子力高い気分になってました。
中学生の頃、制汗スプレーを買いました。レモンの香りでいい感じでした。学校には、扇風機しか無かったし、皆、下敷きで扇いだりしていました。制汗スプレーを使い出して、少しは、快適に過ごす事が出来ました。
私が自分用で一番最初に使ったのは、レコードのクリーニングスプレーですかね。
レコードをエンベロープから出してクリーナーを薄くスプレーし、スティックのフェルトでレコードをまんべんなく拭きプレーヤーのターンテーブルへ。ソノシートはペラペラなので、スプレーしたらターンテーブルに置いて回転させながらフェルトで拭いでました。
艦の検査修理でドック入りし業者がする乾舷(カンゲン、水面から上甲板の側面部分)、船底塗装で使うスプレー、あれは結構でかいし熟練工のスプレー塗装は早いし仕上がりが綺麗でさすが!
私が幼稚園の頃、父親と風呂に入っている時の事です。頭をシャンプーで洗いながら、髪の毛で両側に角を作り、真ん中を少し尖らせて「ウルトラマンタロウだ!」と遊んでいると、父親がおもむろに、スプレータイプのシェービングフォームを手に取り、泡を僕の口の周りに付けて「ウルトラの父じゃの♪」とデコレーションしてくれた事がありました。
私はその事がおもしろく、味をしめ、一人でお風呂に入る時には、決まって「ウルトラの父」に扮して遊んでいました。シェービングフォームが出てくる時の音とか、スプレー缶から泡が出てくる様そのものが面白くもありました。
最終的には「最近減りが早すぎる。もう、髭剃りの泡で遊んだらイケんぞ。髭もシャンプーで作れ。」とクギを刺されたので、以降、シェービングフォームの無駄使いはやめました。子供の頃の思い出です。
子供の頃、うちのお袋もそうでしたが、化粧台、三面鏡の前には、やたらと髪を整えるヘヤースプレーが置いてありました、友達の家に遊びに行っても、必ずそのてのスプレーがありました。
おばさんパーマ全盛期の、必需品だったんですかね(笑)
学生時代によく使っていたスプレーがありました。コールドスプレーです。当時、運動部で、よく先輩らが、練習の合間に使っているのをみて、自分も使ってみたい!と思い買って使ってました。
すると、ある日、何気にテレビを見ていると、新幹線を掃除するスタッフが掃除道具のアイテムに、コールドスプレーを使用しているのをみて驚きました。当時はよく、新幹線の通路にガムを捨ててあったので、そのコールドスプレーを使用してガムを取っていたのを思い出しました。
さて、次回は「昭和の氷」で行きましょう。かき氷はもちろん、氷まくら、ウイスキーの氷、氷の彫刻…etc昭和の頃の“氷にまつわる話”をお待ちしております!
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
こちらもどうぞご覧ください!
昭和の スプレー
2024年07月07日
昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
今日は「昭和の スプレー」で30分。
昭和のスプレーと言えば、やっぱり殺虫剤です。
とくに、晩御飯を食べてる最中に、どこからとなく、数匹のハエが飛んできます。手で払いますが、中々逃げてはくれません。
すると、親父が動き始めます。テレビ台の中の殺虫剤スプレーに手が伸びます。
家族はすかさず、新聞紙を数枚広げ食卓を覆うと殺虫スプレーが噴射されます。
薬が浮遊している間、食事は中断します。
5分くらいで食事が再開してました。
昭和のスプレーですが、やはりヘアスプレーでしょうか。
中学3年生の時に聖子ちゃんヘアーが大流行。
クラスの中でも、聖子ちゃんヘアーにしている女子がいました。校則違反にならないよう、パーマをかけずに、毎朝くるくるドライヤーでブローして、ヘアスプレーでバリバリに固めて型だけはまさに聖子ちゃん。私は毎朝時間をかける根性も、聖子ちゃんヘアーに仕上げる技量もなく、おかっぱでした。
昭和のスプレーといえば、髪をセットしたあとに、固めるミドリの“ケープ”でした。当時は聖子ちゃんカットが流行りで、くるくるドライヤーで外巻きにして、型崩れしないように固めるのですが、あまり近くで吹き付けると白くなってしまい失敗することも、、その後の流行りは前髪をトサカのように立ち上げ、スプレーで固める工藤静香スタイルで、女子には必需品だったと思います。
昭和のヘアスプレーは匂いがきつかったです。
母が髪をカーラーで巻いて、仕上げにシューッとヘアスプレーをかける時は、息を止めて他の部屋に逃げていました。
参観日にお母さん達が教室に集まると、全員の頭から漂うヘアスプレーの匂いと、よそいきの着物から漂う防虫剤の匂いが混ざりあってすごかったです。
私が中学生の頃、「HONDA CITY TURBO」のプラモデルを作るときに、タミヤのスプレー缶の塗料を使ってみました。初めてだったのもあり、楽しくなってジャンジャン吹き付けて、だいぶ分厚く塗ってしまったのを覚えています。そのあと、乾くのを待てずに、つい塗装面を触って指紋をつけてしまいました。
「昭和のスプレー」で思い出すのが、模型等に吹き付けて色を着けるスプレーです。
小学生の頃、「Uコン」が流行っており、近所の空地で飛ばしていました。
当時、兄が「Uコン」のキットを買ってきて作っていました。バルサの木で骨組みを作り、エンジンを取り付け、仕上げにテープでマスキングした部分に「スプレー」で塗料を吹きかけていました。
私は、夏休みの自由研究に、兄が作った飛行機を提出したら、市内の学校の優秀作に選ばれ、金賞を受賞してしまいました。「兄が作った飛行機なのに...」と思いながら、複雑な気持ちでした。
噴射式殺虫スプレーと言えば現在ではスプレー缶が当たり前ですが、私が小学生の頃は手動式のハンドスプレーでした。本体がブリキの筒状で先端に白や黄色の薬剤を入れるカップがあり、瓶に入った殺虫剤を買って来て入れピストンの取っ手を前後に動かし噴霧する物でした。
さて、次回も「昭和のスプレー」で行きましょう。今週まだまだ出ていないスプレーはあります。番組聴いて“あれもスプレーだったなぁ”と思い出すネタをお待ちしております。
なお、7月13日土曜日から夏の高校野球山口大会が開幕します。高校野球期間中は、中継がある場合はお休み、雨などで中継やらない場合は11時半から放送ございますので、ご昭和も高校野球も応援よろしくお願いします。
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
今週は「昭和のいつの間にか出来るようになっていた事」。
https://www.youtube.com/watch?v=OHJhp3PBrmo&t=430s
逆シングルを披露してくれた少年!うまいぞ!
途中から流れる「第1回 ご昭和フタオープン選手権」もお楽しみください!
昭和の ミイラ
2024年06月30日
昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
今日は「昭和の ミイラ」で30分。
周南近辺に昔から住んでいる自分と同じ年齢付近の方なら、昭和のミイラと聞いたら、まず殆どの人が毛利プラザで開かれた「インカ文明のミイラの展示」を思い出すんじゃないですか?
当時、母が俳優の“岸田 森”さんのファンだった影響で、テレビドラマ“怪奇大作戦”を一緒にみていました。怖がりの私はオープニングとエンデイングは音を消してみていました。(主題歌の絶叫がたまらなく怖かった)
ある回では包帯をグルグル巻きにした男の話があり、一緒に観ていた3才上の姉は“ミイラよミイラ!!”と絶叫したことを思い出します。また、通っていた病院の待合室で、けがをされ、包帯を巻かれた患者さんと目を合わさないようにしたものでした。
1960年代にテレビ番組で「恐怖のミイラ」と言う番組がありました。包帯を巻いたミイラが、ゆっくりゆっくり歩くところから番組がスタートしたと思います。見るのが怖いので薄目を開けて見ていました。
初代ウルトラマンの第12話「ミイラの叫び」に出てきた「ミイラ人間」が、私の幼い頃のトラウマでした
下半身は包帯が巻かれているのですが、上半身は剥き出しの姿で、人間というよりは「サルの化け物」みたいな造形で、口が裂けてて、目が光ってます。そして、人間を襲うときには、顔をプルプル震わせながら、目から怪光線を発射するんです。
もう、ビジュアルといい、動きといい、トラウマ度数満点でした。それ以降、怪獣図鑑を見るときも、ミイラ人間のページは飛ばして読んでましたし、建物の暗がりに行くと「ミイラ人間が出てくるんじゃないか?」とビクビクしていた事を思い出します。
昭和のミイラといえば、怪奇プロレスラーのザ・マミーが思い出されます。確か日本プロレス時代に来日したレスラーで、全身包帯を巻いていていかにもミイラという格好をしていましたが、実力はたいしたことなく単なる怪奇レスラーで終わったと思います。
昭和のミイラ、と聞いて、浮かんだのは、『ザ・マミー』という怪奇派プロレスラーのみです。ミイラを英語で言うとマミー、これで覚えました。ミイラはポルトガル語が語源だった気がします。
残念ながら、生で見たことはありません。
昭和のミイラで思い出したのは、アニメ『タイガーマスク』覆面リーグ戦の虎の穴レスラー『エジプトミイラ』です!身体中に包帯を巻いていて、身体をバンバン叩いて、目潰し(?)の粉を撒きちらすシーンを覚えています。
小学生の時、楳図かずお先生の恐怖マンガ「ミイラ先生」の単行本を持っていました。
ミッションスクールのシスターの姿をした美しい先生がミイラになってヒロインが襲われるみたいな話だったような。
家に遊びに来たクラスメートに貸したままなので今は手元にありませんが。
昭和のミイラで思い出すのは、日曜夜のテレビ番組の「知られざる世界」のオープニングで毎週2秒程映し出されるミイラの映像です。
当時はミイラが怖かったですが、怖いもの見たさで見ていました。当時はまだインターネットは勿論、衛星中継や国際電話も滅多にない頃。外国の情報が得られるドキュメンタリー番組が好きでよくみていました。
私の地元である青森県弘前市には、昭和の頃、ミイラがおりました。と言いますのも、かつてこの地を治めていた津軽藩の殿様のお墓を昭和29年に別の場所へ移した際、早くに亡くなられた12代目の若様がミイラとなった状態で発見されたのです。そのミイラは毎年、弘前さくらまつりの時期になると一般公開されていて、当時の子供たちの間では、「ミイラを見に行ったかどうか」が、ある種の度胸試し的なステータスとなっていたのですが、私は怖くて行けませんでした。その後、私が高校生になった頃、ミイラは火葬されてしまったので、今となっては、一度ぐらい見に行ったら良かったかなと、ほんの少し後悔しております。
先週の放送の最後で山根さんが仰っていた「佐賀のミイラ」は、伊万里市にある「松浦一酒造」の「河伯(かっぱ)のミイラ」のことだと思います。
この「河伯のミイラ」の他、昔の酒造りの道具や農機具・民族資料などが無料で公開されているようなので、佐賀にご旅行の際は立ち寄られると面白いと思います。
さて、次週、7/7のテーマは「昭和のスプレー」で行きましょう。塗料、ヘアスプレー、殺虫剤、オイルスプレーetc昭和の頃も色んなスプレーありましたよね。スプレーにまつわるお話お待ちしております。
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=D9NRlQWMNdM
今週は「昭和の親切②」
山根さんは飲みに行くとき財布を持っていきません、なぜか?どうぞご覧ください。
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