
ご昭和ください ブログ
昭和の続・失敗した買い物
2026年05月24日
今週は「昭和の続・失敗した買い物」で30分。
皆さんの後悔話がたくさん寄せられました。
≪昭和50生まれのリスナーさん≫
昭和24年生まれの父。自分が小3の時に、家族に何も言わず独断で一戸建てを購入し、家族からブーイングでした。
≪昭和31年生まれのリスナーさん≫
今は亡き義理の母のことなんですが、私達夫婦が勤めで居ない日中のこと、義母は友人といわゆる 悪徳商法に参加したらしく高額なお布団を買ってたようで。
ある日、義理の母から「息子には言うちゃあいけんよ、実は…」と打ち明けられたことがありました。そのお布団は、結局使った形跡がなく、ずっと義母の部屋の押し入れに入ってました。亡くなってから 遺品整理をするときに夫にその話をすると、夫は「そねぇな金があったらワシにくれりゃあエかろうに」と笑ってました。
≪昭和30年生まれのリスナーさん≫
昭和60年頃、原油タンカーでインドネシアの港に入港しました。
タンカーが港に入港すると、木彫りの人形などの土産物を乗組員に売りに来る商売人がいます。
この時には、たくさんの籐椅子の写真を持ってきて、買いたい人がいたら現物を持ってくると言っていました。その写真の中に、高さ1.5メートルぐらいの大きさの籐のロッキングチェアーがあり、15,000円と書いてありました。私は「5000円なら買うよ」と言うと、しばらくして、その商売人が、現物の大きなロッキングチェアーを持ってきて「5000円でいい」と言っていました。5000円ならいいかと思い買いましたが、驚いたのは、船が日本に帰ってからでした。
三重県の港に入港して、代理店に「この籐椅子を送りたい」というと、「これは高いですよ」と言われましたが、請求書には「14,000円」と書かれていました。更に問題は、家に着いてからです。
船の上では、ちょっと大きいイスでしたが、小さい家に持ってくると、こんなに大きいイスを置く場所が見付からず、結局、大きい家に住んでいる友人に、タダで譲りました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
中学1年生の時、セールスの人が我が家に来まして、英語のカセットテープ24巻、確か、20万円くらいしましたかね。
『聴いたら、英語が話せるようになるんかいな?』と思い、買ってもらいました。
最初の1本目を聴いたら、わけがわからず、耳がついていかず、2本目からは、全く聴きませんでした。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
『ぶら下がり健康器』です。
家族の誰も継続使用できなかったので
すぐに使わなくなり洋服ハンガーになってしまいました。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
昭和11年生まれの父のことです。
私が小6の頃、ルームランナーを買いました。ルームランナー機能を外すと腹筋ができ、縦置きにすると懸垂ができるという物で、お昼のワイドショーで売られていました。父が「どうしても欲しい」というので、家族でお年玉やら母の給料やら出しあって買いました。
だいたい何でも長続きする父ですが、これだけは文句が多かった。1週間ぐらいは黙ってやってましたが、やがて「わしゃー腹が出とるけのう、手がたわんのじゃ」と言って腹筋をせず、「ハァこりゃあキツイ」とぼやいては懸垂もやらず、ルームランナーそのものもサボるようになりました。気がついたら部屋の片隅で父の服が掛けられていました。勿体ないというか、子供心にモヤモヤしました。
さて、次週5/31もテーマは「昭和の続・失敗した買い物」で行きましょう。ついつい背伸びして買ってしまったもの、ちょっと広告に惹かれて買ったものなど、 後悔が先に立たなかった買い物のエピソードをお待ちしております!
そして、ご昭和くださいの「X」、#kryshowaでご覧ください。ラジオ放送の前日、毎週土曜日に翌日の放送分のちょっと良い場面を動画でUPする予定です。ぜひ、“フォロー”と“いいね”をお願いします。
昭和のテープ PART2
2026年05月17日
今週は「昭和のテープ PART2」で30分。補修するテープ、別れの紙テープなど、いろいろありました。
≪昭和31生まれのリスナーさん≫
昭和のテープで重宝したのが『ダイモテープ』です。アルファベット・カタカナ・数字が打てて
カセットテープのケースに貼って使ってました。
銀玉鉄砲のようなものの上に丸い型板をはめて打ちたい字をセットし、引き金を引くとテープに字が浮き出る物でした。
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
昭和のテープで画期的と思ったのは、コンビニのおにぎりの包み紙のテープです。真ん中のテープを引っ張って、包み紙を両端に引っ張る。おにぎりに乾いた海苔を巻いて食べられるのも新鮮でした。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
「昭和のテープ」で思い出すのは、『火薬紙テープを使うおもちゃの鉄砲』です。ブリキの鉄砲に赤い火薬紙テープをセットして引き金を引くと紙テープの火薬部分が叩かれます。すると「パン!」と音がして、火薬のニオイがするおもちゃの鉄砲です。
1発打つと紙テープが自動的に送られて連射もできました。陸上競技のスターターピストルの小さい音版でしょうか。単純な作りでしたがインパクトがあり、男の子の魂をゆさぶるアイテムでしたね。
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
小学生の頃、新聞紙を丸めて、その頃にあった紙で出来たテープ(セロハンテープの紙版)でぐるぐる巻きにし、野球のボール大にしてバッターとピッチャーだけでの野球をやってました。打ってるうちに形が変わってきて、思いもよらない変化球になったりしました。
≪昭和25年生まれのリスナーさん≫
昭和38年、私が中学校の二年生の時、三八豪雪といわれる大雪の年。正月になっても遊ぶものがないからと、姉と二人で大雪の中を歩いてトランプを買いに出かけました。膝まではまり込む雪の中を片道4kmの山道を歩きました。ようやくの思いでたどり着いたお店にはあいにくトランプはなくて百人一首がありました。仕方なくトランプの代わりに
買い求めた百人一首。それが何年も何年も長く、楽しませてくれるとはその時は思いませんでした。
やっているうちに歌を覚え、白熱した戦いになったものです。繰り返し使っているうちに、百人一首の入っている箱も傷んできて、それを修理、補修したのがビニールテープです。当時はビニールテープもまだ珍しいくらいでしたが、箱をぐるりと巻いて補強しました。そのおかげで今に至るまで何とか持てています
≪昭和35年生まれのリスナーさん≫
母の実家は境港の、隠岐の島へ行く大型船の発着場の近くでした。その祖父母の家に行ったときに偶然目にしたのが、隠岐の島へ行く船と見送りの人を結ぶ紙テープでした。たぶん、隠岐の島に赴任する学校の先生とか、色んな仕事で転勤する人だったんでしょうね。
さて、次週5/24のテーマは「昭和の続・失敗した買い物」で行きましょう。
これまで「迷った買い物」「思い切った買い物」がありまして、そこでも出てきたかもしれませんが、“こりゃ~失敗した”“安物買いの〇〇失い”など後悔が先に立たなかった買い物のエピソードをお待ちしております!
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昭和のテープ
2026年05月10日
今週は「昭和のテープ」で30分。録音やくっつけるなど、いろいろありました。
≪昭和31生まれのリスナーさん≫
小学校2年からメガネをかけていました。あの頃のメガネはカドが折れやすく白いばんそうこうテープで補強していましたが、めがね再々買い換えられないので、集合写真で映っているのが嫌な思い出です。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和のテープで思い出すは、バドミントンラケット用のタオルグリップテープです。
バドミントン部に所属していた高校時代、ラケット素材の主流がウッドから金属へ移行する時期と重なってました。軽い金属ラケットを使う方が何かとメリットが多いんです。ラケットが軽くなると、スイングスピードが増すので、汗に寄るすっぽ抜け防止のために、タオルグリップテープを巻くことも当たり前になっていきました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和のテープ」で思い出すのは『マジックテープ』です。中学生で買ったサイフは小銭入れのフタの開閉部分と全体を畳んで留める部分がファスナーやボタンではなくマジックテープでした。
開け閉めのときに、ベリベリと音がしました。
また、長い間つかっていると毛羽立ってきて、くっつきが悪くなりましたね。
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
「昭和のテープ」と言ったら「ハエ取りリボンテープ」です。光沢のある茶色いテープです。使用後はドン引きしますが、環境に優しいSDGsなアイテムです。まだ現役だそうです。ちなみに出身高の正門前に本社、工場がありました。
≪昭和27年生まれのリスナーさん≫
ものまね芸人の清水あきらさんが、谷村新司さん、研ナオコさん、顔の特徴をセロハンテープを貼って、面白くしていました。中でも、研ナオコさん鼻の穴を、上向きに、テープを貼って似せたのは、笑いました。
さて、次週5/17も「昭和のテープ」で行きましょう。絆創膏、ビデオテープ、ビニールテープ、ラベルテープ、紙テープなどなど。昭和の頃のセロハンテープやビニテは、剥がし目がどこなのかよくわからくなって爪を立てて探していたなぁ。
次回も昭和の“テープ”にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています。
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昭和の新品2
2026年05月03日
今日5/3は昼の通常放送の他に、夕方6時から「ご昭和ください傑作選」も放送!なんと3本分のご昭和くださいをお楽しみいただきます。
さて、今週は「昭和の新品 PART2」で30分。今週も新品が来た時の嬉しさの話がたくさんです。
≪昭和27生まれのリスナーさん≫
昭和では買った物に、購入年月日と名前を書いていました。
名前は、私物の場合は氏名で共用物は共用名。
油性ペンが無かったので墨を使って書く、ソロバンは縁が黒だったので、名前を彫ってもらったかな。
今では見掛けないけど、自転車は住所・氏名・電話番号を前の泥よけに購入店で書いて貰い、不慮の時に備えていました。
昭和生まれは何にでも名前を書く。
イニシャルの場合も有ったかな。
≪昭和44年生まれのリスナーさん≫
昭和の新品。子供の頃、新しい靴を買ってもらって履く時の事を思い出しました。
新しい靴を買ってもらうとすぐに履きたくなり、座敷の上で履こうとすると、ばあちゃんが「家の中で新しい靴を履くのは人が死んだ時じゃから縁起が悪いからやめんさい!!」と怒っていました。その時は何で縁起が悪いのか分かりませんでしたが、お葬式の出棺の時に新しい靴で座敷に上がったりするので、たぶんその事だったんでしょうね。
あと、新品の靴を履き始める時。夜に新しい靴を下ろすな!と、これもばあちゃんがよく言っていました。やむなく履かなければならない時は靴の底をマッチやライターの火で軽く炙って、それから履くようにと言い聞かせられました。どちらも迷信なのでしょうが、大正生まれだったばあちゃんはこういうのに厳しかったなーと、ふと思い出しました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
中学生になって女子テニス部に入部しました。休みに部活の仲間とサイクリングに行こう、となって集合場所に親の自転車で来ていたのは私だけでした。昭和の自転車は黒くてガッシリとしていて、そのまま行商にでも行けそうな丈夫な車体でした。格好は悪いし重いので、走っていても皆からは遅れがち。徒歩通学だったのでオシャレな自転車を知らなかった私は、その日から家中に「自転車を買って!」の紙を貼りまくり猛アピール。とうとう、新品のピンクの自転車を買ってもらったのでした。
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
昭和の新品ですが、私は小学1年生になる時は山口市に住んでいました。
当時、百貨店“ちまきや”には家具売り場があり、学習机もそこで買って貰いました。
学習机は親の趣味で、ダークブラウンの木の色の大人の机という感じでした。
もちろん、本棚、コンセント、ライトなどの機能も付いてなかったので、友達の普通の学習机が羨ましかったです。
兄と7才離れていたので、兄と私どちらにも新品で揃えてくれた両親に感謝しています。
≪昭和25年生まれのリスナーさん≫
昭和30年代、田舎暮らしの我が家には厳しい時代でした。私には姉がいましたが、おさがりは当然のことで、下の子には新品が少なかったの自然なことです。
とはいえ真新しい教科書や学用品をもらったりしたときにはそれはそれなりにうれしかったものですが、そんな中で特に心に残っているのは画用紙です。
当時は紙はそれなりに貴重品で、真っ白でまっさらの大きな画用紙は私にはとても大事なものに見えました。「こんなきれいな紙に好きなように絵をかいていいのだろうか」というような気がしたものです。当時は画用紙は学校からもらえるものではなく、写生などの時には自分で文房具店で買っていかなければなならなかったのでなおさらです。
今でも大きなカレンダーのきれいな裏紙は切ってメモ代わりに使います。白くて大きくてまっさらの画用紙、私にはまさに新品の貴重品でした。
さて、次週5/10のテーマは「昭和のテープ」で行きましょう。セロハンテープ、ガムテープ、ビニールテープ、カセットテープなどなど。我が家は何か壊れればなんでもビニールテープで補修する。ボロボロになるまで使い切ってましたね~。次週も皆さんから昭和の“テープ”にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています。
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昭和の新品
2026年04月24日
今週は「昭和の新品」で30分。やはり、おNEWが来た時は嬉しいよね~。
≪昭和40生まれのリスナーさん≫
我々の時代は、高校の入学に合わせて新品の腕時計を買うのが流行っていました。
当時、デジタル表示の腕時計の人気が高かったです。
休み時間に、ストップウォッチ機能を利用して、10秒ピッタリで止める遊びをしていました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
持ち物は何でも4歳上の兄のお下がりでした。小学校低学年の時、木琴を一人ずつ揃えることになりました。学校から注文書を持って帰ると、またまた兄のお古の青いケースに入った木琴を渡されました。この時、初めて木琴はいいけど「ケースは赤にして欲しい」と言ったら親が赤のケースを買ってくれました。とても嬉しかったです
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の新品で思い出すのは「匂い」です。何でも新品の匂いは好きでした。特に新品の本の匂いは、紙、インク、それに接着剤だろうと思いますが、その匂いが甘いバニラの匂いがして好きでした。
また、父を早く亡くした長男の私は、厳格で信心深い祖母に育てられていたため、貰いものや新品はまず仏様にお供えし、ろうそくを立て、線香を上げて合掌した後に、お供えした新品を使っていました。新品は何でもほのかに線香の匂いがついてました。
≪昭和28年生まれのリスナーさん≫
私が小学生の時、父は妹の結婚式の為に新品の黒の礼服を買いました。しかし、式の前に空き巣に入られて礼服を盗まれてしまい、結局式には貸し服で出席する羽目になりました。その後犯人は捕まったらしいのですが、礼服は出てこないままでした。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
「昭和の新品」で思い出すのは『大晦日の下着』です。子供の頃、大晦日にお風呂から出ると、用意してある新品の下着を着ました。決して裕福な家では、なかったので、着古した下着が新年から新品になるのが子ども心にうれしかったと記憶しています。
さて、次週5/3も「昭和の新品」で行きましょう。おNEWです。新品の靴下をはくとゴムがきつくて痒くなる、新品のグローブにボールを入れて紐で縛って形を作るetc昭和の頃、新品を手に入れてワクワクした思い出、エピソードをお待ちしています。
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昭和の測定 PART2
2026年04月17日
今週は「昭和の測定 PART2」で30分。“はかるもの”っていろいろあるんですね~。
≪昭和43生まれのリスナーさん≫
小学生時代に「クラス対抗体力測定大会」がありました。いろいろな競技があり、100m走や、1000m走にリレー、走り幅跳びに走り高跳び等、順位で点数をつけ、クラス順位を争うものでした。
自分はソフトボール投げにエントリー。出る人は、当然、少年野球をやってる人間ばかり。自分なんかは、野球は遊び程度しかしてませんでした。でも、結果は野球経験者相手に2位になりました。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
「牛が居なくなった牛舎兼倉庫を建て替える」と親父が言い出したのが中学1年の時でした。
二階には勉強部屋ができる計画。どこかの建築会社に頼んだのかと思ったら、休日や仕事から帰宅後に、親父が1人で作業を始めました。家の土台を作る時、手伝わされたのが「水盛り」と言う作業。水を充填した細い透明のビニールホースで水平な位置に鉛筆で印をつけていきました。
「基礎が一番大事」と言ってました。
完成した勉強部屋で中高生時代を過ごし、熊本県の測量の専門学校に進学しました。
レベルと呼ばれる望遠鏡のような器械で測ると水平が解ると言う事を学びました。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
昭和の測定と言えば水泳部での「100M平泳ぎ」。
自分が中学生の時は、1分30秒を切るとインターハイに出場が出来たんですが、自分のタイムは、1分30秒から1分31秒の間でした。先生から「0.5秒くらいだしどうにかしてやろうか?」と、温かい申し出が有りました。しかし、当時の私は、「大きな大会で、ビリを泳ぐのはイヤ」と断った記憶が有ります。今、思えば出ておけば、良かったかな?と、思っています。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
「昭和の測定」で思い出すのは「スピードガン」です。中日スタジアムで球速表示が始まった昭和55年、中日ドラゴンズの小松辰雄投手が150km/hを連発し「スピードガンの申し子」と呼ばれていました。
その年の夏休みに、近くのショッピングセンターで
「スピードガン球速測定イベント」が行われ友達と参加しました。帰宅部の高校一年生の全力投球は90km/hが精一杯だったと記憶しています。
≪昭和27年生まれのリスナーさん≫
私の中学時代は、学校の規則で男子はみんな、丸刈りでした。月に一回、頭髪の検査があり、先生が手のひらを頭に乗せ、指の間から髪の毛が伸びていたらアウト!すぐさま先生がバリカンで10センチぐらい5厘カットに。一部分だけで恥ずかしいので散髪して登校しました。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
小学校では体力測定とスポーツテストがありました。握力測定で思い出すのが測る時に測る手を脚とか身体に押し付けると力以上の数値が出るので、いかさまをするやつが中にいましたよ。
≪昭和55年生まれのリスナーさん≫
ファミコン世代ど真ん中の私にとって、かつて絶対に負けられない「測定」がありました。
それは「連射」です!ただひたすらに10秒間、誰よりも多くボタンを叩いた者が一番偉い。そんな単純明快な遊びに、私たちはあの手この手で興じたものでした。
我が家には、“シュウォッチ”という連射測定のためだけに生まれたおもちゃが今も残っています。
ある日、8歳の息子が押し入れからそれを見つけ出し、無心にボタンを叩いている姿を目撃しました。かつての自分を見るようなその光景に、私は思わず目を細め、微笑ましい気持ちになりました。
しかし、ふと画面に表示された彼の記録を見ると、かつての「猛者」としてのプライドが騒ぎます。おぼつかない手つきで必死に挑む息子を横目に、私は心の中で静かに呟きました。
「悪いな。その程度なら、まだ父さんの勝ちだ」
いつか追い越されるその日まで、この小さなボタンの上の記録だけは、全力で守り抜こうと思っています。
さて、次週4/26は新テーマ、「昭和の新品」で行きましょう。おNEWです。お下がりでなく新品。新品の靴のマジックテープはよくくっつく。山根さんは“新車の匂い”がお好み。昭和の頃、新品を手に入れてワクワクした思い出、エピソードをお待ちしています。
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昭和の測定
2026年04月12日
今週は「昭和の測定」で30分。やはり「座高」の話が多かったですね~
≪昭和34生まれのリスナーさん≫
昭和の測定」と言えば、やはり学校での身体測定です。特に思春期では座高測定を気にしてました。なぜなら胴長短足度がわかるからです。
≪女性リスナーさん≫
昭和63年春。私は小学6年生でした。
その春の身体測定で座高を測った時に発覚しました。「クラスの女子の中で1番座高が高い!」背は真ん中ぐらいなのに。
自慢にもなりませんよね。座高No.1女子なんて。
でも、私はお尻が大きかったので上半身が長いというよりは、お尻の肉が厚いってことにもなりますよね。決して足が短いわけでは無いはず。
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
私の母は中学を卒業するとすぐ、宇部港近くの計量所に勤め始めました。事務所の前には工業鉄くずを積んだトラックごと重さが計れる 大きな鉄板のはかりがあり、近所の子供たちがローラースケートをしに来てました。また、計量器の問屋もしていたので、我が家には、分銅や棒天秤、料理はかり、温度計などが残ってます。
≪昭和37年生まれのリスナーさん≫
昭和50年4月、中1の時、入学式の翌日、1年生全員の体力測定がありました。
1学年4クラスで半分以上は知らない人。勿論、誰がどのくらい体力があるのか、みんな関心を持って測定していたと思います。
肺活量の検査では、Mさん(女子)が男女合わせて学年トップの測定結果でした。どんな女子なのか?別のクラスからゾロゾロと大勢Mさんを見に来てました。
≪昭和34年生まれのリスナーさん≫
昭和の測定で思い出すのは、「巨人の星」で星飛雄馬の巨人軍の入団テスト。第二テストの「遠投」で投げたボールが、115メートルのフェンスにダイレクトに当たって挟まり、測定不能に。しかも、遠投でやや上向きに投げたのではなく、ピッチャーがバッターに投げる様な球筋でした。なんちゅう強肩なんじゃと思いました。合格は85メートル以上だったと思います。因みに第一テストは100メートル走で11秒台迄が合格でした。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
「昭和の測定」で思い出すのは「反復横跳び」です。小学校のスポーツテストの一つでした。
20秒間で何回2本のラインを左右にまたぎ飛べるかというテストです。
あわてて、足を滑らせる子、半ズボンのお尻の部分が破けちゃう子、そんな子を見て学習できたのでしょう。着実にリズム良く飛べて一番だった記憶があります。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和48年頃だったと思います。両親が家を建てました。父が土地、家屋の測定を自分で作成すると言って200坪以上あった土地の測定を手伝わされました。メジャーを持たされてアチコチ測定しました。それを父は和紙のような紙に書き込み完成させていました。それが正式な登記の書類だったかは、よくわかりませんが何かの費用の節約の為だったと思います。
さて、次週4/19も「昭和の測定」で行きましょう。
山根さんは東京のジーンズショップで股下を測ってもらったのが印象的と。山根さん足長い、裾を切ったことがないって。昭和の測定にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています!
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昭和の食べ過ぎ
2026年04月05日
今週は「昭和の食べ過ぎ」で30分。昭和の頃はめったにない経験よね、食べ過ぎ。
≪昭和34生まれのリスナーさん≫
昭和の食べ過ぎたと言えば、ロブスターを思い出す。と言うのも、
遠洋練習航海で北米、南米に行った時、カナダ、アメリカでロブスターの値1尾が当時40ドル(レート¥250)位の高過ぎで断念。南米のベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイのロブスターは共に10ドル前後で、上陸の度に昼と晩で2尾は食べていた。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
S43年生まれの私が1番食べ過ぎたのは、岩国に回転寿司が出来た時です。オープン日だけ「食べ放題」だった記憶が有ります。30皿あたりでギブアップ。ズボンのチャックが閉まらなくなりました。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
就職して2年目頃に先輩の家にお呼ばれしてお昼ご飯をご馳走になりました。先輩の家は鮮魚店で先輩のお母さんが山盛りの料理を出してくれました。見たこともないくらいの量のエビフライや巻き寿司、お刺身、果物。私にしては滅多に食べられない高級食材ばっかり。これ以上食べられないくらい食べて、夜、具合が悪くなりました。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
自分は子供のころから人一倍、食が太くて、それを内心自慢にしてました。まわりから、「凄く食べるんですね」と言われるのが嬉しくて、無理をして食べている事も多々ありました。
そんな噂が会社でも広まっている時に、同僚から「ウチの女房が食事に連れて来てくれと言ってるんだ」と言われました。まだ独身だった自分は「是非行かせてもらおう」と2つ返事で了承、その週末の晩、同僚の家に伺いました。
すると、自分が大食いと言う情報を知っていた奥さんは、「焼肉を2キロ」と「ご飯を3合炊いて」迎えてくれてました。せっかくの奥さんのご厚意を無駄にしては申し訳ないと必死になって食べましたが、さすがに全部はたべきれませんでした。
≪昭和27年生まれのリスナーさん≫
その昔、島根県益田市にある小さな漁村に、仕事仲間4、5人で、漁師さんに船を出してもらい、イカ釣りに行きました。ヤリイカが、たくさん釣れました。イカを持ち帰って、焼いたり、刺身を作ったり、みんなで、イカパーティ。夜、なぜか「私だけ」胃の調子が悪くなり、激痛が走りました。すぐ病院に行き、診断によると、寄生虫による腹痛でした。4、5日入院したと思います。
さて、次週4/11のテーマは「昭和の測定」で行きましょう。
身体測定、体力測定、血圧測定。健康優良児だった高橋少年はいつもローレル指数が高かった。座高を測る時、クラスのみんなが高橋少年に注目「やっぱり短足~!」などなど、昭和の測定にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています!
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昭和の屋台
2026年03月29日
今週は「昭和の屋台」で30分。チャルメラの音色からスタートしました。
≪昭和34生まれのリスナーさん≫
広島県呉市の屋台。呉の船に13年間、乗っていたので上陸し呉の街に飲みに行き、よく〆で中華そば等を食べに行っていた。定番の中華そばにおでんに大好きなガンス。因みに呉の屋台は世襲制と公募の2本立てなんと。
≪昭和42年生まれのリスナーさん≫
昭和40年末、宇部市松山町1丁目の交差点にリヤカーに小窓とヒサシを付けたたこ焼き屋さんが来て女の方が売っていました。黄土色の紙袋に入って爪楊枝が刺さって二個50円だったかな?祖母とスーパーに行く時は、このたこ焼きか三角パックのコーヒー牛乳どちらかを買ってもらうのが楽しみでした。
≪昭和29年生まれのリスナーさん≫
小学生のころ、即席ラーメン「チャルメラ」のパッケージそのままの雰囲気の屋台が家の近くにやって来ていました。外食なんて数えるほどしか連れて行ってもらってなかったけど、父がラーメンだけは食べさせてくれました。出来上がるまで見ていると、おじさんが木でできた引き出しから麺を取り出していたのを覚えています。もちろん車じゃなくてチャルメラを鳴らしながら屋台を引っ張っていました。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
自分が若い時には徳山駅の駅前の勧銀の近くに、バナナを売る屋台がありました。
物凄くデカくて、いっぱい房の付いたバナナを、人が集まるとおじさんが、あのみんなが知っている叩き売りの口上をリズムに乗せて売ってました。
自分は本当にバナナが欲しかったので、値段を下げる前に買おうとしたら、おじさんが「兄ちゃん、ここからがおじさんとの駆け引きなんだ、すんなり買ってもらっちゃあ、おじさんこまるのよ」と言われたのを覚えてます。
≪昭和46年生まれのリスナーさん≫
中学2年の頃、ドラマ「毎度お騒がせします」を放送していた毎週火曜日の夜9時ごろに「宝来軒」という屋台が、夜11時頃に青いワゴン車の「流しのチャルメラ」屋さんが来ていました。私はラーメンが好きなので、丼を持って買ったラーメンを食べながら聴くチャルメラの音が好きでした。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
敢えてここではおでん推しです。
ビニールで覆った中に、熱々のおでんとむさいおじさんたち。酒が進みましたね。
私は酒飲みの母と大体三軒はしごでした。
いい時代でした。
さて、次週4/5のテーマは「昭和の食べ過ぎ」で行きましょう。
お呼ばれしたお宅で“あれも食べてこれも食べて”、食べ放題で食べ過ぎたけど満腹幸せetc昭和の頃の食べ過ぎにまつわる思い出・エピソードをお待ちしています。
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昭和の 庭 PART2
2026年03月22日
今週は「昭和の 庭 PART2」で30分。昭和時代の庭エピソードは多種多様ですね~。
≪昭和38生まれのリスナーさん≫
自分の母方の爺さんは、大工では無かったんですが、住んでいた家も自分で建てて、ひとんがたも建てに行くぐらい器用な人でした。
その母方の家の庭には、爺さんが作った池があり、池の後ろには高さ2メートルぐらいのセメントで作った富士山があったのを記憶してます。
母親が話してましたが「けっして家族からは好かれていなかった」「自由気ままな」爺さんでした。
でも、自分は父親が早くに亡くなってましたので、父親の様な存在で、大好きな爺さんでした。
≪昭和39年生まれのリスナーさん≫
昭和の庭で思い出したのは、「縁側」です。
庭の有るお家には大抵、庭に面した所に板張りの通路がありました。
庭付き一戸建てに住んでいても、庭に向かって腰掛けて、お菓子を食べる、お酒を飲む、等々の話は、今では殆ど聞きませんね。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
当時、中学1年の頃、父の転勤で仙台市から福岡市に引っ越しました。その時の住まい(もちろん賃貸です)は、平屋で庭もテラスがあり、かなり広かったのを覚えてます。そして、この庭には、柿の木があり「柿が食べる事が出来る!」と期待したんですが、父から「後日に、大家さんが来て、柿を収穫するから、勝手に取らないように」とくぎを刺され、がっかりしました。
よく考えたら、そこに約5年半住んでましたが、1回もそこの柿をもらう事もなかったので、母も「大家さん、ケチだったね」と言ったのは、言うまでもありません。
≪昭和38年生まれのリスナーさん≫
子供の頃、実家は兼業農家でした。ご近所もほとんどがそうでした。南に向いた家、門田(かどた)と呼ばれる田んぼ。その間に、細長い庭がありました。春には田植え前の苗を育て、秋には収穫した稲を庭で脱穀します。
摘んだお茶の葉や椎茸をゴザに広げての天日干し、家族総出で行う、家中の畳干しも庭でやっていました。ほとんど作業場でした。
≪昭和43年生まれのリスナーさん≫
昭和の庭と聴いて、3歳(S46年夏)の時の場面が思い浮かびます。
両親共に花好きで、日除けの為、竹を組んでヘチマを育てていました。実は枯れた後、タワシにして身体を洗っていました。それと手作りの池もあり、お祭りで取った金魚を入れて飼っていました。猫に取られないように金網をかけていました。
さて、次週3/29のテーマは「昭和の屋台」で行きましょう。
今ならキッチンカーなんでしょうが、おでん、ラーメン、焼き鳥、リヤカー、あたりに漂う独特な匂い、チャルメラの音、真っ赤な提灯etc昭和の頃に体験した屋台にまつわる思い出・エピソードをお待ちしています!
そして、ご昭和くださいの「X」、#kryshowaでご覧ください。ラジオ放送の前日、毎週土曜日に翌日の放送分のちょっと良い場面を動画でUPする予定です。ぜひ、“フォロー”と“いいね”をお願いします。
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