ご昭和ください

ご昭和ください ブログ

昭和のすいか

2020年08月30日

昭和46年生まれ49歳、高橋裕です。

今週は「昭和のすいか」で30分。

 

49歳の私にとって昭和のスイカと言えばっ。
小学生の夏休みに毎年兄と2人で下関駅から滝部駅まで
山陰本線の国鉄のディーゼルカーに乗車し、
祖母の家に1週間程度泊まりに行っていました。
そこで川遊びやプールに虫取り等、
遊び疲れた後に祖母が必ず裏庭の井戸で
冷やしていたスイカを1玉引っ張り上げて
私と兄に縁側で御馳走してくれるのが楽しみでした。
必ず青いラベルのアジシオをフリフリして食べてました。
今でもスイカを食べると祖母の家の縁側でスイカを食べながら
兄と聞いたひぐらしの鳴き声を思い出します。

スイカは、夏の間でもお袋が買ってきてくれるのは
ひと夏に2、3回ぐらいなもんでした。
冷蔵庫に入れて冷してから次の日に食べるんですが、
もう学校に行ってても頭の中はずぅーとスイカでした。
お袋が切ってくれたスイカを、兄貴と2人で
カブトムシの様にむさぼり喰って赤い所は当然で、
白い所でさえ殆んど無くなってしまうくらいの有難い食べ物、
それがスイカでした。

今は種を出すのが面倒臭いからスイカは嫌い
と言う子供が多いと聞きます、信じられません。
一人っ子の私のウチでは
スイカはいつも4分の1に切ったモノを母が買っていました。
それでも余るくらいで十分足りるのです。
だから丸ごとのスイカが憧れで、
「大人になったら丸ごと買うぞ!」と思いましたが、
ウチも一人息子なので結局4分の1を買います。
ただ…この時期(夏)になると子供の頃、
夏休みに母の実家に(江田島)従兄弟達と泊まりに行き、
その時はおばあちゃんが丸ごとのスイカを
井戸の横でラムネと共にタライに入れて
冷やして待ち構えてくれていた事を思い出します。
無愛想なおばあちゃんでしたが、
私たちが泊まりに来るのを楽しみにしていたのかな。
私がおばあちゃんになった今、そう感じます。

スイカと言えば、高校の時のバレー部の合宿で食べた
スイカポンチを思いだします。
合宿を1週間くらい夏休みに学校でするのですが、
これがまたきつい。
3年生はその時引退しているので、
食事の支度は3年生がするのです。
で、最終日の最後の食事はすごい豪華で、
なかでもこのスイカポンチをみんな楽しみにしていました。
スイカを半分にして中をくりぬいて、
スイカや他のフルーツ、みつ豆、寒天、
お団子なんかをいれるのです。
1、2年の時はそれを食べる事が楽しみで、
つらい合宿をのりきりました。
でも、3年の時はちょっと作るのが大変でしたね。
それから、このお盆に、
4つ上の姉がスイカを持って来てくれたのですが、
この切り方が結構赤い所を残すのです。
なぜかというと、お兄さんが皮で漬物を作るというのです。
姉は昭和60年に結婚したのですが、
結婚したての頃、注意され伝授されたそうです。
この赤い所の残し加減が難しいそうで、
お兄さんが作ってくれましたがなかなかでした。

子どもの頃、夏休みは田舎で過ごすため神戸から姫路へ行き、
バス待ちで駅前のパーラーに入り氷スイカを食べました。
氷スイカの幟が風にはためいているのを見ると、
いよいよ夏休みだ!とわくわくしたものです。
一口大よりやや大きめのスイカがガラスの深皿に盛られ
上からカキ氷がかかっているシンプルな物です。

昭和の末期に姉の家に遊びに行った時、
途中のスーパーにスイカバー&メロンバーの
マルチパックアイスがあったので、手土産に持って行きました。
ちょうど姪っ子の友達が2人遊びに来ていたので、
「スイカバーとメロンバーどっちがいい?」と聞いたら、
3人の子どもたち全員が「メロンバー」と言うではありませんか。
赤くて切ったスイカそっくりなスイカバーが
喜ばれると思って買ったのに。
「スイカよりメロンを選ぶって今どきの子どもだね」と
言いながら、姉とスイカバーを食べたら、
赤い部分はスイカ味じゃなくてイチゴ味で、
緑の部分はメロン味でした。

 

さて、次週9/6のテーマも「昭和のすいか」で行きましょう。
山根さんは子供会でスイカ割りをした後、
スイカの皮を被ってヘルメットっと言って遊んでいたそう。
種無しスイカ、黄色いスイカ、ラグビーボール型のすいかetc.
昭和の夏のスイカの思い出を送ってください!
お待ちしてます!


新着記事

昭和の お見送り

2025年05月25日

昭和の 録音

2025年04月27日

月間アーカイブ